まだ人が少なく、澄んだ空気の朝の新宿駅を駆け足で通り抜け、新宿武蔵野館で是枝裕和の「真実」を見た。
彼の作品は大学生の頃に出会って以来本当に好きで、それ故に中々映画館まで足を運ぶことはできなかったのだが、結果として今回も本当に見て良かったと思える作品だった。好きすぎて期待を裏切られるのが怖いなんて思っていた自分がひどくちっぽけなものに思えるくらいに。
是枝監督の作品は、いつも家族とは何かというテーマがつきまとう。
「歩いても歩いても」では家族のわだかまりと食い違いが精緻に表現され、「海よりもまだ深く」では不甲斐ない自分から逃げ続ける中年の男性とその家族の在り方が描かれている。また、「海街diary」では家族を捨てて放蕩していた父親が死んだのと入れ替わるように腹違いの妹が迎え入れられ、血を超えて家族になるプロセスを穏やかに映し出している。
その中でも、今回の「真実」は母娘というテーマに焦点を絞り、家族の再生を丁寧に編んだ物語のようだった。映画館を出てからも、凪のような余韻が頭の先からつま先までずっと続いていて、なかなか家に帰ることができなかった。
今回、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるフランス映画に大御所として君臨するファビエンヌは、いわゆる仕事を優先して奔放に生き、家族を顧みなかった母親として描かれている。
役のためなら監督と寝ることも厭わないし、夫と離婚した後も恋人には困る様子が無い。私生活はだらしなく、高圧的で威丈高、傲慢で不遜。見栄っ張りで決して自分からは謝らない。平気で嘘もつくし言い訳も多い。娘の婿を三流役者だと批判までする。お気に入りなのか、劇中に出てくるヒョウ柄のコートが彼女の性格をよく表している。
こんな彼女を良い母かと問われたら誰もが肩を竦めるだろう。兎にも角にも毒っ気が強すぎるし、彼女の良さを理解するには相応の年月が必要で、例に漏れず娘が恨んでいるのも納得がいく。しかし、では良い母親とは一体どういったものなのだろうか。
その対比として、この作品には「サラおばさん」という女性が登場する。とはいえ、サラおばさんはすでに他界しており、決してスクリーンには登場しない。さながら「ゴドーを待ちながら」のゴドーのように、登場人物たちの会話によって彼女がどんな人物だったのかが亡霊のように立ち上ってくる。
娘のリュミールにとってはサラおばさんは育ての親で、彼女の話からはサラおばさんが事実上の母親だったことが伺える。学校の迎えに来てくれていたのも、初恋の相談相手も、何もかもしてくれたのはサラおばさんだった。
そんな母親がわりとして自分を育ててくれたサラに対して、ファビエンヌのとった行動が引き金となりその関係もリュミールからは喪われてしまった。そしてそれを今でもリュミールは赦せずにいる。
と、ここまでくると確かにひどい母親で憎むに値する人物なのだが、是枝監督は劇中で「ほんとうにそうだろうか」とさりげなく、母親としてのファビエンヌの言い分を優しく、気づくか気づかない程度に散りばめている。そして、この懐の深い第三者の視点に今回もほんとうにやられてしまった。
特筆すべきはラストにかけての母娘の対話だ。
どうしても母親が許せないと言い放った娘の心にさくり、と刺さるのはやはり母親の言葉で。母親としてではなく、一人の人間としての苦悩や脆さを知ればこんなにも愛しい存在なのだということを気づかされるような美しいシーン。そう、誰もが「お母さん」である前に一人の人間なのだ。家族というものは、役割があるからこそ難儀で、そして愛おしい。
是枝監督の映画の素晴らしさは、見ている側の家族の業まで絡め取って共に昇華してくれるところにあると思っていて、今回もそんなシーンがさざ波のように寄せては返し、最後は大きな波となって心ごと包まれて洗い流されたような気持ちになった。
倫理観には欠けているが、それでも母親として在ろうともがいていたある日の母の姿。自分の弱さから目を背け、母を憎むべき相手として見ることでしか自我を保てなかった娘。
いつか赦せるのかもしれないし、赦せないのかもしれない。長年培った母と娘の確執が、例えずっと昔から欲しかった言葉をもらったところで、昨日の今日で魔法のように無くなる訳では無い。それでも、それでも。
鑑賞後の余韻にどっぷりと浸りながら映画館の階段をふらふらと降りるともう昼になっていて、朝の新宿が嘘のように人々の喧騒で賑わっていた。
この余韻をどうするか迷って伊勢丹に行くと、鈴懸に苺大福が売っていたので一つ買って歩きながら食べた。口の中に甘酸っぱい香りが広がって、改めて良い映画だったなとしみじみと余韻を噛み締め、夫の待つ家に帰ろうと思ったのだった。