東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

自粛期間中に料理が嫌になりかけた話

 

タイトルのままのことです。

東京都が自粛を要請した3月26日を皮切りに、巷では「おうち時間を楽しむ」と称したお菓子作りのレシピや、プロの考案した家庭で再現できるご馳走のレシピなどが次から次へと現れています。

ありがたいと思う一方で、1ヶ月近い自粛期間を経験して、別に楽しむことは強制ではないのだ、たとえ楽しめなくとも淡々と生活すればそれだけで良いのだ、と思うようになりました。

当初私は、外出ができない時間を自炊を充実させることに充てようと思い、スーパーで買った鮮魚を辻調理師専門学校の公開しているレシピで鯛めしにしたり、料理通信で見た好きなお店のレシピや、Instagramで無料公開されているレシピを家で再現してばかりいました。初めはプロのレシピを家庭でも真似することで、家でも外食に近い味が楽しめることができ、外食をしたい!という欲求が解消されることに満足感を得ていました。プロのレシピを一通り追うことで調理の合理性や、鮮魚の保存方法、肉の火入れの加減や、素材と調味料の組み立て方を素人ながら理解できるのも新鮮な学びと驚きがあり、良い経験でした。

しかし1週間もすると、常に手元でレシピを確認しながら調理をしなければならないことや、作る量の加減、栄養素の把握や、1品あたりにかかる時間を体感で把握できないことで、他の料理の段取りや献立の構成を考える時間に影響が出始め、今まで好きだった料理そのものに強いストレスを感じるようになってしまいました。

また、慣れないテレワークと自粛生活で生活リズムも変わっていたこと、それらを考慮せず家事のタスクを詰め込みすぎていたことも影響しました。思い返してみると、4月になってからは家にいる時間を「有効活用しなくては」と思い込むあまり、炊事の他に掃除や洗濯を休みの合間という合間に組み込んでしまい、気がつけば私の休憩時間は殆どありませんでした。

こうして少しづつ蓄積されていった疲労は、ある時不眠という形で現れてきました。幸い一過性のものでしたが、自分の心に余裕がなくなっているのは火を見るよりも明らかでした。

これではいけない。私がなりたいのはプロの料理人やハウスキーパーではなく、自分にとってのプロの暮らし上手ではないか。

自粛期間中「意義のある自粛期間にしなければ」と思うあまり、ハレの料理ばかりを作ろうとしていたけれど、私が私のためにしたい自炊は、自分の疲労度に併せて料理を作り、栄養バランスがよく、食べて元気になるような料理を作ることではなかっただろうか。ハレの料理を作れることは格好いいし憧れるし素敵だなと思うけど、一生続けることなのであれば、もっと自分のよき理解者となれるよう日常食としてのケの料理も愛していきたい。掃除や洗濯だって、確かに毎日できていたら気持ちがいいかもしれないけれど、習慣化できない範囲のことは分割して、自分に無理のないペースでやっていくほうがずっといい。

そんなことに気がついてからは、自粛期間に入ってから特に狂いが生じていた料理の工程を見直し、これまでのルーティンに戻しました。

朝は固形物を食べると胃が重く仕事にならないので白湯で胃を温めてから、ヨーグルトに蜂蜜をかけたものを食べる。これだけだと栄養バランスが偏るので、足りない分はプロテインとビタミン剤で補う。

昼はあらかじめ土曜のうちに炊いて1食あたり80gで冷凍しておいた玄米を解凍し、その間に魚焼きグリルに切り身を入れて焼き魚にするか、スーパーで買ってきたサクを漬けにしておいたのものを乗せて海鮮丼にする。余力があればインスタント味噌汁に適当に葉野菜を入れて熱湯を注ぐ。これならそこそこ栄養バランスも良く、会議中に眠くなることもない。料理の時間もせいぜい10分かかるかかからないかくらいなので、食事の時間を合わせても過不足なく休む時間が確保できる。

夜は冷蔵庫の中にあるものを確認し、足りなければスーパーに買い出しに行く。予算と冷蔵庫の在庫管理、栄養バランスを考慮して献立を決め、料理をする。疲れている時や仕事が終わらない日はお惣菜や冷凍食品の力を借りる。自分ができないことに罪悪感を持たない。

加えて、メインになる肉や魚は買ってきたその日のうちに酒と塩胡椒で下ごしらえをしておいたり、昆布しめにしたり、酒粕と味噌を1:1で仕込んだ粕床につけておく。そうすることで翌日の料理がうんと楽になるし、何よりうっかり使うのを忘れてしまってもある程度日持ちしてくれる。

作るときは、我が家にはガスコンロが3口と魚焼きグリルが1口あるので、目が離せない焼き物や炒め物は1品だけ作り、あとは目を離しても、つまり煮過ぎても蒸し過ぎても味に影響の少ない調理工程を組み合わせて作る。

例えば卵とトマトの炒め物を作るときは、蒸し器に茄子とキノコも入れて同時並行で調理をしていく。炒め物ができたら茄子は練りゴマとにんにくと塩、キノコは黒酢と塩で和えれば30分足らずで3品できる。

と、ここまで濃密に自炊と向き合ってはたと気がついたのは、自分は台所に立つことが1日に45分が限界だということでした。薄々感づいてはいましたが、もともと体力がないので45分以上台所に立つと「もう家のことは何もしたくない!」という気持ちが加速してしまう。そりゃそうだ、台所仕事以外のこともしているのだから。

1日のうちに労働し、勉強も読書も掃除も洗濯も買い出しもして、台所に1時間以上立てるのは超人です。自分のキャパシティを動物を入れる檻に例えるならば、ライオンの檻に象を入れることはできないということに気がつきました。どれかにかかるリソースを調整しなくては檻が壊れてしまいます。

今日はもう1品作れると思っても、作らない。新しいレシピを試すのは週に2回までで、うち平日は1回までとする。新しいレシピを作るときは1品だけ作り、他の料理は作らない。毎回料理のあとはコンロと、水回りだけ綺麗にして眠りにつく。このルールを守ってから、料理をするのが楽しいと再び思えるようになってきました。

素敵なお菓子もプロのお料理もたまには良いかもしれないけれど、余力のない時、ましてや不安や怒りで心が乱れがちな今、かえって手を出すと自分を追い込みかねません。もともと象の檻を持っている人はできるかもしれないけど、他人の檻が自分に合っているとは限らない。それらは時間・予算・体力といった限られた制約の中でできることを考慮された家庭料理のレシピとは異なる別の楽しみ方がある物だということに気づき、考えなしに飛びついた自分を反省しました。

そして、これらをできない自分がいたとしても、それはできるできないに個体差があって当たり前のことなのだなと思うと同時に、改めて料理を生業とする人たちを尊敬し、外食に行けるようになったらまたその喜びを噛み締めよう、そのためには日々自炊をして体調を管理し、旬のものを味わいながらその日を待とうと思ったのでした。 

 

最近SNSでも「自粛期間で時間があるのに丁寧に暮らせない自分に落ち込む」と行った言葉を見かけます。確かに、Instagramをひらけば「おうち時間」のステッカーをつけたおびただしい量のストーリーが流れ、#ステイホームといったハッシュタグの利用回数は4月27日時点で16.1万回にも登り、誰も彼もが素敵な暮らしをしているように見えます。

けれど、そうした素敵な手作りお菓子の写真がアップロードされる暮らしには、シンクに溜まった洗い物や、台所に飛び散った生クリーム、オーブンについた焦げだって付き物なはず。そして、そうした部分を引き受けても作りたいという欲こそが暮らしの可笑しみと愛おしさのように思います。

それに、そうした暮らしがあるのなら、この自粛期間に文字通り何もしないという暮らしだって立派に暮らしていることになるのではないでしょうか。

何か特別に過ごすこともせず、「おうち時間を楽しむ」こともしなくたっていい、いつも通り淡々と暮らしたり、ひたすらダラダラしてもいい。怒りながら総理官邸の意見フォームに粛々と意見を述べてもいいし、不安で仕方ない気持ちを認めたら、いつも飲んでいる紅茶を淹れて自分を落ち着かせてみたり、近所のスーパーで買ったお菓子を添えて気持ちを慰めてみてもいい。今味わう感情という感情に折り合いをつけて、何か作ってみようかなという気持ちになったら、そこから始めてみればいい。人には人の、自分には自分の暮らしがあるだけです。

きっと暮らしというものは高級で上等なものでも特別なものでもなく、社会における自分の立場を見つめ、限られた制約の中で自分を適切にケアをしていくことなのだと思います。他人と比べてうまく暮らせない自分を卑下せずに、淡々と自分に合うオーダーメイドなライフスタイルを模索していく過程こそが、その醍醐味なのかもしれません。

そして、もしそれが実現できない時は「それは自分の努力が足りていないから」と思う前に、自分の立場が社会とどのように関わっているのか、一度考えてみる。暮らしとは社会と密接な関わりを持ち相互作用しあっているものなので、もし今の暮らしが辛いと感じるのであれば、もしかするとその原因は自分の外にもあるのかもしれません。

他人から見えて粗末な暮らしに見えたとしても、自分が自分のよき理解者としてそれを適切に選択できているならそれで良い。初めからうまく暮らせなくてもいい。ただしおかしいと思ったら声をあげてみる。暮らしの範囲を狭めず、自分を生涯の良いパートナーとして認め、共に生きていくために暮らすことを楽しんでいこう。そんなことを考えている今日この頃です。