東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

カレーうどんを作る

てんぐ食堂のカレーうどんが無性に恋しくなったので昨日の夜のうちに鰹出汁を引き、今日の午後は群馬旅行のお土産で買ったまま冷蔵庫の化石になりかけていたひもかわうどんを茹でてカレーうどんを作った。
別室にいる夫がカレーの香りに誘われたように出てきたので「今できたところだよ」と告げ、どんぶりを取ってもらう。踏み台を使わないと届かないところにあるそれを取るのはいつしか夫の役割になりつつある。できたてのカレーうどんをよそって渡すと「ありがとう、じゃあ会議行ってくるね」とまた部屋に吸い込まれていった。昼休みに入る暇もなく会議が続いている夫を歯がゆい気持ちで見送る。本当であれば一緒に食べたかったそれを一人で食べる気にはなれず、残りは全て冷凍して自分は玄米に焼いた鮭、味噌汁といういつもの昼ごはんを食べた。
しまった一緒にお茶を渡しておけば良かったなと思い、カメラに映らないようしゃがみこんで別室の扉を薄く開ける。幸いカメラはついていない会議だった。気配を感じた夫が振り返って(めちゃくちゃうまい)と口パクで告げてきたのでこちらもハンドサインを駆使しながら(お茶いる?)と尋ねる。いるとのことだったので、台所へ戻ってグラスに氷を入れ、ペットボトルから緑茶を注いで夫のデスクに置いた。(ありがとう!)と満面の笑みを送る夫を撫でたい気持ちを抑えて小さく手をふりそっと扉を閉める。
仕事中の夫は知らない人のようでいまだに緊張する。もしこの人と会社で出会っていたら、きっとお互いの警戒心の強さも手伝って、決して今のような関係にはならなかっただろう。出会った時の夫は柔和で優しいが決して自分を安売りしないような潔癖さがあった。初めて会った時、不可抗力で肩が触れてしまったことがあったのだが、夫はそれから薄く、しかし相手が傷つかないくらいの間合いで距離をとり、私はそれにいたく感動したのだった。ともすれば身体的な接触の好機とするものもいるのにそうしない、ということが当時の私にはとても得難いようなものに感じられ、こんな人に好きになってもらえたらどんなにいいだろうと思ったのだった。
とはいえ一緒に生活していると、そうした新鮮な気持ちよりも慣れが優ってくるもの事実で、先日私たちにしては珍しく小さな諍いがあった。その時、流石にこれは長期化するかなと覚悟したのだが、夫が「なんで怒っているかわかりたいから教えてよ」と真摯な目でまっすぐ尋ねてきたことに不意をつかれた。たとえ言い合いになっているとしても「あなたをわかりたいから話そう」とする姿勢がなんともこの人らしく、あっという間につまらない意地が溶かされ、どうでも良くなってしまった。どうしてこんなことが言えるのだろう。言葉にしていこうとする部分と、言葉にしないでおく部分のセンス。まったくもって私はお釈迦様の手のひらで暴れている孫悟空のようだ。
夫が人間関係に潔癖な節があるのはこの情の深さによるところもあるのかもしれない。彼は一度自分のテリトリーに迎え入れた人間を、よほどのことがない限り見放さない。彼は「この人には情をかける義理がない」と決断するまでのリーチが私よりも長いのだ。時々自分がそんなことを忘れていることにある種の傲慢さを感じて恥ずかしくなる。
明日はもっと夫のことを慮れるようになりたい。そして次に小さな諍いがあった時には、私から彼にあなたを理解したいと伝えていけるようになりたい。そんなことを繰り返していけば、都会で嫌な人間になっていくように思えた自分が、少しは良いものになれるだろうかと思いながら。