東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

1泊2日京都旅行【後編】 無鄰菴、鴨川デルタ、カレーうどん

前回の記事はこちらから。

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京都旅行2日目の朝はくもり。ホテルで朝食がわりにヤオイソのフルーツサンドを食べ、地下鉄に乗って蹴上へと向かいます。

朝の散策

蹴上インクラインを歩き、琵琶湖疎水の歴史を知る

改札を出て、南禅寺の方面へ緩やかな坂を下っていくと、右手に奇妙な佇まいのトンネルが現れました。

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一見古いトンネルのように見えますが、よく見ると中のレンガが捻れたような形で積み上げられています。ぐにゃりと歪み、まるで異界に通じるかのような佇まいのトンネル。気になって右手にある看板を読むと、次の説明が記されていました。

「ねじりまんぽ」は三条橋から南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、明治二十一年(1888)6月に完成しました。高さ約3m、幅約2.6m、長さ約18m。「まんぽ」とはトンネルを指す古い言葉です。トンネルの上部に敷設された、台車に載った船が行き交うインクラインの重さに耐えられるように、内部のレンガは斜めに巻かれ、トンネルはインクラインと直角ではなく斜めに掘られています。
トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い第3代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があります。西口の「雄観奇想」は「見事なながめとすぐれた考えである」、東口の「陽気発処」は「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つことができる」という意味です。
このような形状のトンネルは全国的に施工例が少なく、また多くが老朽化や廃線等で撤去されました。「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術を物語る重要な遺産といえます。

 どうやらこのトンネルは明治の中頃、東京奠都に伴う人口の減少と産業の衰退に歯止めをかけるべく産業計画として立案された琵琶湖疏水計画に伴って作られたもののようです。東京奠都によって当時の京都市の経済が打撃を受けたことは知っていましたが、まさかその対応策として「琵琶湖の水を京都に引いて産業と流通を発展させよう」という一大プロジェクトがあったなんて。初耳でした。

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ところどころ欠けたレンガが歴史を物語っているよう。中に入ると心なしか冷んやりとした空気を感じて心地よく、前を進む家族の声が反響しては体に響き、トンネルの外へと抜けていきます。
ちなみにこれらの煉瓦は輸入ではなく日本で作られたものを使用しているとのこと。トンネル建設の着工が1885年なので、日本で煉瓦製造が基盤に乗り、花開き始めた時期と重なります。
ぐにゃりと歪んだトンネルの向こう側に見える景色は風情があり、まるで過去の人間の目線を通してみる風景のようでした。

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そのままトンネルの上に上がって線路の上を南禅寺の方角に向かって下ります。このレールも琵琶湖疏水計画の一環で引かれたもので、蹴上インクラインと呼ぶのだそう。別名傾斜鉄道とも呼ばれていて、これを使って当時の人々は疎水の上流と下流の間にある約36mもの高低差を物ともせず、舟を運んでいたとのことでした。「これがあるおかげで京都と滋賀間で舟を用いた物流が可能になったのか」と感じ入りながら線路を辿ります。

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振り返るとさっきまで歩いていた場所が遥か向こうに見え、彼方へと伸びるレールに清々しい気持ちになりました。この距離を舟が運ばれていただなんて。そうしてさらに線路を下っていくと、目の前に雑木林が立ち現れ、そこから噴水がひょっこりと顔を出しました。

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草むらの奥に噴水が立ち上がる姿を見て、思わずワァッと声が漏れます。この水がはるばる琵琶湖から流れ着いたものだなんて信じられない。

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歩道に上がって改めて高い位置から見下ろしました。穏やかに流れる水の音、水面を意気揚々と泳ぐ鴨。京都にこんな風景があったなんて。
ちなみにこの琵琶湖疏水計画に携わった主要人物の一人である南一郎平について調べたところ、なんと同郷の生まれでした。こんな人がいたなんて知らなかったなと思いつつ、なんとなく縁を感じます。
遥か昔、近代化の流れの中で都市としての生き残りをかけて、琵琶湖から京都へ水を引くという一大プロジェクトに携わった人々。そんな彼らの仕事が今ある京都の一部を形作っている不思議。いつか機会があれば、京津線に乗って大津から蹴上まで、琵琶湖疏水の流れをたどる旅がしてみたいものです。

無鄰菴で心置きなくボーッとする

本当なら南禅寺の方まで歩き、琵琶湖疏水にまつわる旧建築を巡りたかったのですが、今日は目的地があったので疎水に別れを告げて歩道を渡りました。路地に入ってすぐ左手に、今回の旅で最も楽しみにしていた建物が見えます。

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一昨年に吉田五十八が手掛けた東山旧岸邸を見学してから数寄屋建築と日本庭園に熱を上げるようになり、以来京都を訪れたら絶対に足を運びたいと願っていた無鄰菴。政治家であった山縣有朋の別邸として建設され、母屋と茶室、そして洋館の3つが敷地内に存在しています。また、ここの庭園は国際文化会館や旧岩崎邸の庭園を手がけた七代小川治兵衛が山縣の意向を汲みつつ作庭しており、国の名勝にも指定されています。

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ちなみに隣にはかの有名な瓢亭があり、ミーハー心がくすぐられました。昔お世話になった大学の教授に勧められたものの、値段を調べてウヒャアとひっくり返った想い出です。

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瓢亭を背に無鄰菴の門をくぐると、視界が開けて清々しい緑が目に飛び込んできました。木々の配置と石畳の導線、せり出すように建設された母屋が空間に焦点を定めていて、同じ空間にある勝手口が自然と目立ちにくい設計になっている。ことさら華美な作りではありませんが、視線の誘導が巧みなこともあって、静謐な緊張感とどこか清々しさを感じます。

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受付から入り口を振り返った視点はこちら。門から入って右側にある休憩所が屋敷を後にする人間から見えにくい構成になっています。数寄屋建築にはこうやって門の隣に休める場所が時々置かれていますよね。名前がわからないので勝手にお休み処と名付けては呼んでいますが、本当は何と呼ぶのでしょう。

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そのお休み処に活けられていたススキ。季節を感じさせる草花に心が和みます。花瓶のしたにこうやって何か噛ませると空間の焦点がはっきりしていいのだな、今度家でも試してみようなどと思ったり。

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ゆっくり入り口を堪能した後は、受付を済ませていよいよ母屋の玄関口へ。1歩足を踏み入れて、その光景に思わず息を飲みました。玄関から中庭、そしてその先に庭園が見えて家主が何を見せたいかがはっきりとわかる。なのに庭園にたどり着くまでの導線は、あえて回遊するように設計されています。こうして景観に焦点が当てつつも、あえて単調な導線にしないことによって、手の届かない桃源郷のようにも演出されている。あまりのことに呆気にとられていると、遠くからビュウと爽やかな風がやってきて優しく頰を撫でて行きました。風が家中を縦横無尽に駆け巡っていく。

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ちなみにこの日は玄関口にもススキが活けられていました。高麗青磁に似た透明感のある薄水色が、土壁に映えてとても綺麗。

早く庭に降りたい気持ちを抑えてまずは母屋をゆっくりと見学することにしました。まずは次の間兼客座敷として使われていた8畳ほどのお部屋から。

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既にここから見える庭園が素晴らしく、里山にも似た風景に心が鷲掴みにされます。こんなに優美でモダンな日本庭園があるなんて!

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ガラスは母屋が建設された大正時代のもの。現在主流の平面なガラスとは異なり、ゆらぎのあるガラスを通してみる風景は、まるで水底から外界を眺めているようで不思議と心が凪いで行きます。
手吹円包方というガラスを円形に膨らませて冷まし、それらを加工して板状にするという気が遠くなりそうな工程を経て作られたガラスには、当時の人の息遣いすら閉じ込められているようです。

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淡いクリーム色の襖は京唐紙。よく見るとシダの葉の模様がさりげなく押されています。遠くから見ると木漏れ日のレースのようにも見え、空間に繊細さと柔らかさを与えているようです。広島の入船山記念館で見た金唐紙も素敵だったけれど、あちらが動ならこちらには静の良さがある。
襖引き手も可愛い!よく見ると手をかける中央部分にも装飾が施されています。それぞれの内装は一見空間と調和して目立たないけれど、目をこらすと確かにそこにある意匠が宝探しのようで楽しい。

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次の間を心ゆくまで見学した後は、母屋で最も広い会室の間へ移動します。中庭は明り採りにもなっていて、部屋を柔らかく照らしています。会室の間から見る中庭は、手前のちゃぶ台の効果か小津安二郎の「小早川家の秋」の情景にも似ているようで、小津の目線で写真を撮ろうと画策してみたり。
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 またこの日はニュイブランシュKYOTOというアートイベントの日で、運よくHicham Berradaの作品の展示を鑑賞することができました。水の中で揺らぐ鉱物がテレビを通して映され、画面越しの幻想的な風景と無鄰菴の風景が入り混じり、夢うつつの狭間にいるよう。思いがけず非現実的な体験ができ幸運でした。

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ちなみに無鄰菴の母屋ではカフェメニューが提供されていて、美しい庭園を眺めながらお茶やお酒を楽しむことができます。ちょうどこの日は無鄰菴の庭園を庭師さんが説明してくださる機会があり、それまで時間があったので一服することにしました。 

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悩みに悩んで私は村上開新堂のロシアケーキと抹茶をお願いしました。庭園を流れる川の涼やかな水音に、紅葉が擦れるシャラシャラという音が心地よい。刻一刻と表情が変化する目の前の景色を眺めながら美味しいお茶とお茶菓子をいただいていると、日頃張り詰めていた緊張感がふっと溶けて身体から抜けていくようです。

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ちなみに連れ合いはほうじ茶とどら焼きを頼んでいました。無鄰菴オリジナルのどら焼きをひとくちもらったのですが、これがなかなか美味しくて。調べたところ、京阿月というお店のどら焼きらしく京都では有名どころなのだそう。
それぞれのお茶菓子の美味しさもさることながら、カフェメニューが京都のもので構成されていることに誠実さを感じ、無鄰菴が地域経済や周縁の文化を育もうとしている姿勢に胸を突かれました。東京にも美しい旧建築は多数あるけれど、その箱を通じて体験できる文化の密度があまりにも違いすぎてくらくらします。

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裏庭に面した縁側は、板の継ぎ目に若竹が使われていて洒落ており、数寄屋建築が作り出す侘び寂びの風情がここにも感じられました。
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母屋をぐるりと一周しましたが、やはりお気に入りはガラス越しの風景。何度シャッターを切ってもその度に違う顔を見せるので全く飽きない。ブルーノ・タウト桂離宮を「泣きたいほど美しい」と表現したように、無鄰菴も見れば見るほどひれ伏したくなるような美しさがある。春の嵐のように去来した言葉に尽くし難い感情と共に、永久にこの場に留まりたいとさえ思いました。

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そうこうしているうちに、無鄰菴の庭園の保全・修復を担当している植彌加藤造園株式会社の庭師さんが主催するお庭の説明会が始まりました。

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まずは庭の苔について。実はこの庭を考案した山縣有朋は苔が好きではなかったのだそう。彼は庭師に「苔によっては面白くないから、私は断じて芝を栽る」と指示し、造園当時は敷地のほとんどが芝生で覆われていたとのことでした。

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 しかしながら、京都の多湿な土壌は家主の意向とは裏腹に次第に苔を育むようになり、ついには芝生よりも苔が優勢になっていったとのこと。これに対して山縣は「苔の青みたる中に名も知らぬ草花の咲出でたるもめつらし」と称し、時の流れと共に変わっている庭の風景を受け入れ愉しむようになっていったのだそうです。現在庭園にある苔は50種類を超えるらしく、ふくふくと育った苔は家主をいまだにからかっているようにも見えて、他の日本庭園とはまた違った味わいがありました。

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庭園を覆う様々な苔の中でも、杉苔の佇まいは他と比べてリズム感があり、個人的にお気に入りでした。姫りんごに似た小さな木の実が生っていて、秋の足音を感じます。

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 次に庭園内に設えられた川について。ここの庭園の水は今朝蹴上インクラインを下って出会った、あの琵琶湖疏水が直接引かれているのだそうです。その当時山縣も琵琶湖疏水事業に携わっており、蹴上にこの別邸を作るにあたって水を引き入れることを依頼したとのことでした。明治維新後、それまで田畑が広がっていた南禅寺界隈にはこの無鄰菴建設を皮切りとして多くの別邸が建設されることなり、現在でも碧雲荘や旧寺村助右衛門邸(現:菊水)といった旧建築が残されています。

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山縣が「従来の人は重に池をこしらえたが、自分は夫(それ)より川の方が趣致がある」と言ったように、庭園は滝と川が敷地を横断するようにして流れており、従来の日本庭園にはなかった躍動感を与えています。
また、奥に行けば行くほど勾配が上がり木々が生い茂り滝が見える様は、まるで本当に山を散策しているような楽しさがありました。まさに五感で愉しむ庭園だと感じます。ちなみに滝口は造園当時のまま、サイフォンの原理を使用して水を汲み上げているらしく、あの原理でよくここまで豊かな水を引けるなと感心しました。

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そして特筆すべきは庭園の遠くに見える東山。庭園の周囲を覆う木々が東山を引き立たせるような高さで植えられていることに気が付きます。景観のコントラストが美しく、遠くの東山が故郷の里山のようにも見えて郷愁を駆り立てました。
ちなみに庭にはいくつか飛び石があり、その中でも上の写真の手前中央部にあるひときわ大きく平たい石の上に立って眺めるのが、この庭園を一望するのに最もふさわしい場所なのだそうです。「日本庭園には家主が見て欲しい場所はだいたい飛び石にヒントが隠されているんです」と庭師さんに教えていただき、新しい庭の愉しみ方を知りました。

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そしてこの写真が展望が最も良いとされる飛び石から眺めた光景です。手前から奥にかけて視線が低いところから高いところに誘導されていくのが伝わるでしょうか。また散策時に見つけた滝は姿を潜めていて、家主が見て欲しいものが矢を射ったようにメッセージとして伝わってきます。通常日本庭園ではこれを借景を呼びますが、ここではその言葉を使わず別の言葉を使うのだそう。ぜひ直接無鄰菴を訪れて、その言葉を知ってもらえたらと思います。

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庭園から振り返って眺める母屋にも風情があります。ガラス越しに反射して見える庭の風景もまた良いものです。 

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また、無鄰菴では茶室と母屋の二階部分を貸し出しており、この日は市民の方々がヨガをされているとのことでした。確かにここの庭園の空気を感じながらヨガをしたらとても気持ち良さそう!

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奥には茶室も。この日はたまたま茶会が行われていて、若旦那衆がカジュアルかつリラックスした雰囲気で茶の湯を楽しんでいる姿が素敵でした。日常の延長線上にいつでも伝統と文化に触れられる場があることを羨ましく思います。
また、本当は洋館の写真もあったのですが、なんとなくこれは直接見た方が凄みが伝わるなと思ったので写真は載せずにおこうと思います。
東京の旧建築は、建物に触れることができる場所が限られており、その建物で過ごすと言う体験はどうしても希薄になりがちです。しかし無鄰菴では一つの箱を通じて体験できる文化の密度が濃く、余すことなくその建物の良さを堪能できる素晴らしさがありました。こうした文化財を通じて、日常と文化が地続きにあることを強烈に体験できたことはとても新鮮なひとときでした。
無鄰菴でのひとときは素晴らしいものでしたが、一方でこの建築に携わった山縣は会津征討に関わった人物でもあると思うと、故郷を福島に持つ身としては内心複雑な想いがありました。山縣は会津征討を自身のキャリア構築の足掛かりとしており、会津城籠城戦では包囲軍に加わったのちに、会津降伏もその目で見届けています。この素晴らしい庭園つきの別荘を公費で手に入れた時、彼は会津でのことを想い出すことはあったのでしょうか。もし仮にあったとして、何を思ったのでしょう。美しい庭園に流れる琵琶湖疏水は、彼が殺めた人々と同じ故郷の人間が治水に携わったものであることを知っていたのかどうかは、結局わからないままでした。

旧三井下鴨別邸で出町ふたばの豆餅をいただく

心ゆくまで無鄰菴を堪能した後は、今回もう一つの目的地である旧三井下鴨別邸に向かいます。三井財閥といえば江戸日本橋越後屋の印象が強く、京都で三井と聞いてもピンとこなかったのですが、先代の出自が京都だと言われているのですね。もともと三井家の祖霊社があり、そこに別邸と言う形でこの邸宅が建築されたそうです。
参考:三井広報委員会「三井家発祥の地域・松坂」

https://www.mitsuipr.com/history/edo/01/

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建物は3階建で母屋と主屋と玄関、離れの茶室で構成されていました。写真をよく見ると、建物の右側部分は増築されたものであることがわかります。元々はこの左側の建物のみだったのが、大正時代の移築に伴って右側の玄関部分が増設されたそうです。2階部分は通常非公開ではあるものの、時々予約制の食事プランなどを設けているようで、この日も何人かの姿が見えました。同じく通常非公開である3階の望楼部分は、8月のお盆の時期になると大文字送り火を鑑賞するイベントを催すため、それに合わせて参加者限定で公開しているのだそう。京都の夏の夜を京料理を愉しみながら旧建築で過ごせるなんて羨ましい限り。いつかいい歳になったらそういった体験もしてみたいな。

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こちらが正面玄関。鬼瓦部分には三井の家紋のうち、武家紋の四つ目結びが装飾として施されています。家紋を鬼瓦部分に装飾した建物を見たのは皇居以外ではここが初めてかもしれません。この日は団体客の方達がいらしていたので写真を撮るのを控えていたのですが、床の間に使われた珍しい木材や欄間など随所に工夫が見られ、とても良い建築でした。また本建築についての資料が無料で配られていたのですが、この資料が大変充実していて読み応えがあり、無料とは信じられない完成度で素晴らしかったです。ガイドさんの話を聞くのも好きだけれど、手元に知識が残るのも有難い。

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庭の眺めはご覧の通り。初期の庭園を設計したのは薮内流の茶人である藪内節庵と言われており、都内にある綱町三井倶楽部の庭園も彼が手がけたものの一つなのだそう。その後三井家から京都家庭裁判所に所有が移った後は、建物も庭もほとんど手が加えられることがなかったそうなのですが、建物と庭園の保存活動に当たって曾根造園が着手し、現在の姿に整備されたとのことです。木々が生い茂って住みやすいのか、あちこちから椋鳥の声が聞こえました。

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ちなみにこの日は館内で通常用意している喫茶メニューに加えて、出町ふたばの名代豆餅を一保堂の抹茶と頂けるということでお願いしました。ずっと食べてみたかった豆餅は、塩気がいい具合に効いていてあっという間にペロリ。たくさん歩いてくたびれた身体に染み渡る美味しさです。この他にも亀谷良長の烏羽玉や、冷やしぜんざいなどがあって迷う愉しみがありました。庭園の眺めをひとり占めしながら、京都の美味しいものを食べる贅沢。無鄰菴同様、忘れられない想い出となり、またこれを都内の旧建築で実現することは可能だろうかと考える機会にもなりました。例えば旧岩崎邸庭園うさぎやのどら焼きや、イナムラショウゾウのモンブランをいただけたら。旧鳩山会館のステンドグラスの光が満ちるサンルームで、ささまの最中や近江屋洋菓子店のショートケーキを食べながらのんびり過ごせたらどんなに素敵だろう。京都での文化財の扱われ方を見るにつけ、市民の生活から切り離して状態保存に努めるよりも、使われてこそ文化は守られるということを教えてもらったようでした。

 

昼の散策

元田中の町食堂で、カレーうどんをアチチと啜る

さて、お昼ご飯は『きのう何食べた?』に登場する日の出うどんへ行こうと話していたのですが、なんとこの日は休業日。残念だけど仕方ないね、でもカレーうどんが食べたいよねと、近場でカレーうどんが食べられそうなお店を探し、隣町の元田中になにやら評判が良さそうなお店を見つけたので向かうことにしました。
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比叡本線に乗って元田中駅で降り、お店に向かうとすでに行列ができていました。ショウウィンドウにはおいなりさんとお赤飯が並んでいます。並んでいるうちに次から次へと近所の人たちがやってきては「あかん、後にしよ」と言って諦めたり「今日はぼちぼちやな」と言って並んだり。そうしているうちにおかみさんに通され、カレーうどんを注文しました。

ここのカレーうどんがまた本当に美味しくて。一口啜って連れ合いと顔を見合わせました。ちなみに写真がないのは、あまりにも美味しくて撮り忘れたからです(笑)鰹出汁が濃くて、容赦ない辛さと九条ねぎの甘さがいい。うどんは腰抜けと呼ばれる柔らかいうどん。ほわほわした食感が優しくてホッとする。汗をハンカチで拭いながらハフハフとうどんを啜っては、一味をかけてまたハフハフと啜る。常連さんたちの「おばちゃん、いなりっ」という声が飛び交い、このお店が生活の一部になっていること、通う人たちが築き上げてきたものが伺えてグッときました。私もお腹がいっぱいじゃなかったらいなりもお赤飯も試してみたかった!地元の人に愛されている味のある食堂で心も体も満たされ、ちゃっかり京都で生活しているような気持ちに。清々しい気持ちでお店を出て、すっかり満足している自分に気がつきました。「今度また京都に行くことがあったら、次はここの鍋焼きうどんを食べるぞ」と心に誓いながら。

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すっかりいい気持ちでお店を出た後は、元田中駅から出町柳駅へと電車に乗って来た道を戻りました。この時の帰りの電車は比叡。ピカピカの車体にふわふわの座席が気持ちよく、お腹いっぱいなこともあって少しまどろんでしまいました。

鴨川デルタでひと休み

続いてずっと気になっていたKAFE工船でお茶でもしようかと立ち寄ったところ、この日は満席とのことだったので「じゃあ川のあたりでもぶらつこうか」と自販機で飲み物を買ってふらり鴨川方面へ。

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橋の上から見えた鴨川デルタは、昔地理の授業で習った教科書の通りのきれいな三角州で、思わず感心するなど。後ろに見える山々も風情があっていい。しかし本当に京都は高い建物が少ないなぁ。
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時間もあるし、せっかくなのでデルタ部分を歩くことにしました。この日は家族連れでピクニックをしていたり、恋人同士で本を読んでいる人たちがいて、とてものどかでした。都市の中にこうした憩いの場があることを羨ましく思います。東京だったらきっとこういった小さな土地ですら、パーキングスペースやビルになってしまうだろうと思いながら。東京は現在に至るまでの歴史も含めてスクラップアンドビルドな土地なのだとはわかっていても、あまりにも資本主義的な街の具合にがっかりすることもあるので、条例などを定めて易きに流されまいとする京都の街を見ていると意気地を感じます。

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デルタを散策して向こう岸に渡ろうとすると、いくつかの飛び石がカメの形になっていることに気がつきました。なんて可愛いらしい。一見渡りやすそうに見えますが、実際には意外と石と石との間隔が広くて「エイッ」と声を出しながら必死に石と石の間を飛び越えました。

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のどかな風景と心地よい空間、誰もが憩いの場として集うことができる鴨川デルタ。時間が許せば気がすむまで川縁に座って本を読みふけったり、ぼーっとしたかったです。

京都御所内を気ままにさんぽ 

さらに鴨川デルタから今出川通りの方に向かってずっと歩いていると、左手に開かれた空間が見えてきたました。気になったので吸い込まれるようにして歩みを進めます。はじめは「代々木公園みたいなものだろうか」と思いつつ中を散策していたのですが、それにしては何やらやたらと門があり、しばらくしてここがかの有名な京都御所であることに気がつきました。秒単位でと言ったら言い過ぎですが、京都にいると意識せずとも文化財に出会う確率が高く、価値観がインフレーションを起こしてきます。

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この時は連れ合いが「見学したい!」と言うので付き合うことに。私は近代建築以外の建物には興味がなく、さらにこの時は暖かい陽気に誘われて立って眠れるくらいの睡魔に襲われていたので、あまり記憶がありません…

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始めに目にしたのが御車寄。京都御所にくる客人は牛車を使っていたため、ここで牛車を降りて御所内に入り、御目通り願ったとのことです。この次に諸大夫の間と言う待合室のような場所があり、その人の位に応じて通される場所が異なる仕組みになっていました。可視化して分からせるなんて意地が悪いな、これが諍いの火種になったりしなかったのだろうか、などと思いつつ。

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また宮家の象徴である菊のお花がこんなところに。可愛らしい佇まいに思わずシャッターを切ります。皇居の門には鬼瓦などに菊の模様があしらわれていましたが、このように立体的な造形の装飾は初めて目にしました。魑魅魍魎が跋扈する内裏、このような小さきものに心を癒される人はいたのだろうかと思いを巡らせます。

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続いて歩みを進めて向かったのが紫宸殿。ぴかぴかの朱塗りの門の奥に見えるのがそれです。ガイドさんが「即位の礼で使われた高御座っていう、鳥の籠みたいなの、あれがこの中にあるんですよ」と言っていて、鳥の籠とはまた言い得て妙な…と思うなど。

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その後、昔天皇が日常生活を行なっていたと言う清涼殿・御常御殿を見学して「ここあさきゆめみしで見たことがあるやつだわ!」と存分にはしゃいだ後、御所内の庭園を見学しました。

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誰がどのように造園に携わったのかまではわからなかったものの、伝統的な日本庭園かつ雅やかな作りで、当時の公家の立場がいかに特権的であったのかと言うことを改めて感じます。一方で権力の誇示として使われるだけでなく、あの当時の御所内の女たちを、これらがいっときでも慰める役割を果たしていたらいいと思いました。

京都府庁旧本館を駆け足で巡る

京都御所を見学し終えて時計を見ると、電車の発車時刻まではあと1時間半というところ。GoogleMapを開くと"駅までは徒歩45分"と表示されていたので「いい時間だし、駅に向かって歩こうか」ということで歩き始めたのですが、帰り道に素敵な洋館を見つけてしまい、「ええいままよ!」と一か八かで飛び込んでみることに。

 

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ルネサンス様式の外観は淡いクリーム色に彩られていて、親しみやすさを感じます。外観を撮るので精一杯だったので内観の写真は無いものの、調度品や家具などは当時のままで、とても趣がありました。この日はちょうど京都国際写真展の展示が行われており、旧議事堂で極彩色の写真のパネルを眺めつつ、なんでこんなに京都は見るべきものばかりなんだろうと恨めしい気持ちに。後で知ったことですが、ここの庭園は無鄰菴の庭園も手がけた7代目小川治兵衛が設計に携わったのだそう。本当はもっとゆっくり眺めたかった!またしても次に京都に来た時の宿題が増えました。

旅の終わりに

京都駅構内のキオスクで志津屋のカルネを買う

そうこうしているうちに時間になってしまったので、後ろ髪を引かれながら京都府庁旧本館を後にし、慌ただしく新幹線のホームへと向かいます。2段飛ばしでホームへの階段を登って時計を見ると、発車の7分前でした。すかさず目の前にあったキオスクに飛び込み、晩御飯として志津屋のカルネを購入します。そのまま流れるようにして車内に駆け込み、しばらくしてドアが閉まる音が聞こえました。

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なんとか間に合った安堵感で、席に着くなり身体からドッと力が抜けていくのを感じます。たくさん遊んで美味しいものを食べて、美しいものを見て思う存分羽を伸ばせた2日間。くたびれきった身体に電車の揺れが心地よく、気がつくとそのまま寝入っていました。

塩芳軒の干菓子と旅の余韻

次に目を開けるとちょうど新幹線は横浜駅に到着したところで、車窓から見えるきらめく街並みに関東へ帰ってきたことを実感しました。それと同時に「もっと京都にいたかった」と思っている自分に気がつきます。家についても半ば夢心地で、体半分を京都に置いてきてしまったようでした。

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気を取り直して、自分のお土産にと買って帰った塩芳軒の干菓子をいただくことに。ちょうど十五夜の時期だったからかそれを模していて、遊び心のあるしつらえに和みました。うさぎの目には紅がうすく入っていて芸が細やか。まんまるお月さまを見つめながら焙じ茶を啜り、楽しかった旅の余韻に浸りました。

京都という小宇宙 

あまりにも楽しかった2日間。今回京都を練り歩いて、何より感銘を受けたのが文化財の豊かな使われ方でした。元々旧建築が好きでよく見に行くものの、京都のそれらは生活の延長線上にすんなりと位置する使われ方をしていたことが印象に残っています。身近な場所に芸術や文化があることで、住民が触れて理解することができ、結果としてそれらの保護につながっているのでしょう。文化や芸術が生き残るためにはどうすればいいか、その計画と実践がなされている革新的な街なのだと改めて実感した次第です。
ところで、以前京都に遊びに来た時はまだ学生で、その時は京都大学を冷やかしに行ったり、松之助でチェリーパイを食べたりしたことを思い出しました。あの時はあの時で楽しかったけれど、大人になってからの京都はもっと楽しい。京都という街はコンパクトなのに歩けば歩くほど楽しくて、その疲労感すら楽しい街。それでいて「ちょっと休みたいな」というときに、対価を払わずに休むことができる場所が都市のあちこちにあって、それがこの街に対する安心感につながっているとも感じました。
人は優しく食べ物は美味しく、素晴らしい文化財に見て触れることができ、自然も豊か。京都という小さい星で過ごしたこの2日間を心の栄養に、明日からも頑張ろうと思えた旅行でした。
まだまだ気軽に旅行に行くことはままならない状況が続いていますが、思い立って「そうだ」と行くことができない今だからこそ、今のうちに次に足を運びたい場所や散歩をしたい街をたくさん考えておきたい。そうしてすでに次の京都旅行を想像しては、胸が膨らむ旅の終わりでした。

 

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