東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

結婚記念日

少し前の話になるが、結婚して3年目を迎えた。ふたりでおめかしをしてささやかな食事をし、これからまた1年どうぞよろしくと頭を下げる。

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ギャルソンへ食べきれないプレートを持ち帰りたい旨を伝えると「次の記念日にはこの箱にジュエリーを入れてプレゼントしてもらえるかもしれませんよ」とウインクされて笑ってしまった。もう既にこの箱にはきれいなものが充分すぎるほど詰まっている。
まだ子どもだったころ、恋人同士で記念日を祝う意味がわからなかった。やってくる記念日が義務のようで窮屈で退屈で、恐らく自分は人を愛するのに向いていないと思っていた。生意気で、身勝手な繊細さを持て余していた生き物だった頃の話だ。それが今ではこうして律儀に入籍した日を祝っているのだから、自分という生き物の勝手さに呆れる。恐らくこの記念日を夫にすっぽかされた日には、烈火の如く、あるいは蝮のようにじめじめと怒るのだろう。
結婚記念日には毎年手紙を交換するのだが、今年の手紙にはこの3年間の彼の想いが真摯に綴られていて、これまでの答え合わせをしているようだった。夫が綴ったストレートな言葉に心の奥まで照らされる。躊躇いなく届けられる、粒子がきれいな言葉の数々に面映ゆい気持ちになりながら、この人で良かったと思った。私の人生には、この人でなければならなかった。
一緒に生活する以上、綿菓子のような日々ばかりが続くわけではない。もしかすると一人のほうが気楽なのかもしれない。それでも私はこの人と続けていきたい。違う人間が共に暮らし続けていくことは、意志だけが礎だと思う。
私に手紙を渡しながら「こうして手紙を書くと、もっと伝えたいことがたくさんあることに気がつくね」と言う彼の照れ笑いを見つめながら、この瞬間を瓶詰めにできればいいのにと強く願った。私は傲慢で不遜だから、こうした幸せをすぐ取り出せるところに置いておけたらいい。
夫から手渡された手紙は、鏡台の上に置いていつでも取り出せるようにしてある。恥ずかしいから他のところに置いてよと言われても、当面変えるつもりはない。