東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

なぜ妖怪は生まれるのか? 「ホー・ツーニェン 百鬼夜行(原題: Night March of Hundred Monsters)」

今年の10月から来年の1月末までホー・ツーニェンの新作が展示されると聞き、このチャンスを逃したらもう観れないかもしれないと、愛知県にある豊田市美術館へと向かった。

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天気は晴れ時々曇り。セーター1枚で過ごせるようなあたたかい日で、散歩にはぴったりだった。豊田市美術館に来たのは2019年のあいちトリエンナーレの時が最後になるので、来るのはおよそ2年ぶりになる。相変わらず気持ちのいい空間で、大きく伸びをして深呼吸をした。

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正面に見えるのは谷口吉生設計の本館。

 

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そして本館の目の前に広がるのは、ピーター・ウォーカーのランドスケープ。今回の目的はホー・ツーニェンの展示だけれど、ここの空間を体験できるだけでも贅沢だ。

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この2階部分に続くゆるやかで淀みのないスロープとか、

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庭園と溶け合うような遊び心のある空間とか、

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透明感と開放感のある空間造りとか、本当にどこを切り取ってもいい。中と外を移動するたびに新鮮な視点で気づくことがあり、その記憶の積み重ねがここで過ごした思い出となって、小さな光を放ちながらいつまでも心の中に残る。そんな建築だと感じる。

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嬉しいことに、この日は庭園の紅葉が見頃だった。同じく谷口吉生が設計した茶室「童子苑」が開いていたので、一服していくことにする。

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数寄屋造りの茶室も谷口氏らしく、整然とした線と線の構成が爽やかだ。シームレスな景観に視線を委ねる気持ちよさを味わう。

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庭園の景観を妨げない柱の置き方や、柱にわざわざなぐり加工を施している意匠もいい。

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茶室内では豊田市内にある茶舗と菓子舗の茶と菓子を堪能することができる。私がいただいたのは紅葉をかたどった上生菓子。市内にある花月というお店のものらしく、すっきりとした餡がよかった。建築をただの箱として運用するのではなく、敢えて土地の文化を体験させる場にする手法と、それが実現できる豊穣な土壌がうらやましい。

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水琴窟の音色が響く庭でのんびりと紅葉を眺めていると、日常の憂さがすっかり吹き飛んでしまった。ずっとここにいたかった…

穏やかな時間を堪能した後は、いよいよ展示室へ。思えばホー・ツーニェンの作品を初めて鑑賞したのは、2019年のあいちトリエンナーレがきっかけだった。あのとき彼の《旅館アポリア》に出会った時の体験は、今でも魂の深いところに刻まれている。
作品の会場となった喜楽亭は料亭旅館だった歴史を持ち、戦前は養蚕業の利用者のもてなしに、そして戦中は海軍関係者を、さらに戦争末期には神風特攻隊が出征前に最後の夜を過ごし、戦後は自動車産業の関係者の接待の場へと移り変わっていった場だった。
観客は入り口から2階まで、各部屋に用意された映像を鑑賞し、彼らと共に時代の流れを眺め、様々な立場を体験していく。映像には、映画監督でおなじみの小津安二郎や、「フクちゃん」で有名な漫画家の横山隆一、また当地で過ごした特攻隊や戦中の京都学派らが登場する。観賞後、これまで私がよく知っていたつもりだった歴史や人物像が、喜楽亭というレンズを通して異なる姿を見せる時、正史からこぼれおちていった人々の記憶が怒涛のように自分の中へとなだれこんでくるようだった。

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とんでもないものを見てしまったという思いと、なぜこれまでこれを知ろうとしなかったのかという思い、そしてホー・ツーニェン氏らの丹念なリサーチに圧倒され、私はその場を後にした。そうして帰り道、「今後国内で彼の作品が展示されるなら絶対に足を運ぼう」と決意したのだった。リアルタイムで追いかけたいと思った現代アーティストとの出会いは、彼が初めてだった。
そうして待ちに待った今回の作品テーマは百鬼夜行。文字通り、様々な妖怪たちが練り歩くインスタレーションだ。

www.museum.toyota.aichi.jp

※以降、本編に触れる内容があります。何も知らない状態で本作を鑑賞されたい方は、こちらを飛ばすことを推奨します。

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今回、展示は主に4つのテーマで構成される。展示室1では「100の妖怪」と題して百鬼夜行を表現したのち、展示室2では対象を絞って本作のコアとなる「36の妖怪」を紹介する。どの情報を観客たちにゆだねてどの情報を確実に届けるのか、そのアプローチが的確で、《旅館アポリア》より洗練された印象を受けた。そうして観る側はパズルのピースのように不完全な情報を手にしたまま、妖怪たちが練り歩くインスタレーションを体験し、その作品を解釈しようと思って初めて主体的な存在になっていく。
展示3以降ではさらに対象となる妖怪を「のっぺらぼう」と「マレーの虎」というふたつに絞り、彼らが第二次世界対戦まっただなかの日本でどのように生まれ、そしてインパクトを与えていったのかを丁寧に解き明かす。人が妖怪になり、人をも超えた存在として象徴になること、循環するイメージの中で彼らは幾重も生まれ変わり存在し続けること…そうした妖怪の姿が次々に映される時、私たちはパズルのピースが自分の中にあることに気づく。

妖怪というものの存在は、常に多義的な要素を含み、矛盾した存在であるにもかかわらず、なぜか人々を惹きつけてやまない。小学校からの帰り道、赤く染まった空と対照的に黒々と陰っていく畦道に、後ろから何かがついてくるような気がして、走って家に帰ったことがあるのは私だけではないはずだ。そしてその時頭の中には、学校で友人たちと話をした口裂け女や、花子さんの存在があった。
曖昧模糊として実態が捉えられない存在であるにもかかわらず、「それは確実に存在する」と感じるとき、その妖怪は確かに存在する。そしてその姿は時代を色濃く反映し、常に変容しながら私たちの周囲をぐるぐると運動しているのだろう。今回の展示もホー・ツーニェンらしい丹念なリサーチが感じられる、歴史の網目を解いて一枚のタペストリーに編み直すようなインスタレーションだった。

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本作の展示の最後には、エビデンスとなった複数の図書が置かれていた。いずれもメモして「読む本リスト」に控える。

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観賞後は名古屋高島屋にあるカフェドシエルでお茶をした。きびきびしたサービスとゆったりした間合いの席、ウェッジウッドティーカップが昔ながらのデパートのサロンという風情で、適度な華美さと実質さのある雰囲気がとてもよかった。
ストレートティーを頼むとポットごと紅茶が出てきて目の前で注いでくれる。よく見ると茶葉は英國屋で、以前友人におすすめされて以来気になっていたものだった。思いがけない出会いを果たせたことが嬉しい。地元で生まれ育った人たちが、熱を込めておすすめしてくれる情報が大好きだ。

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紅茶のおともには別の名古屋出身の友人におすすめされていたミッシェル・ブランというパティスリーのケーキを選んだ。幾層にも重なったチョコレートとスポンジは見た目より軽やかで、チョコレートムースをすくって食べているようなエアリーさがあった。元々チョコレートが苦手なのと、どっしりしたケーキが食べられないのでどうだろうと心配していたけれど、まったくの杞憂だった。上の五色沼のように艶やかで透明感のあるチョコレートの姿が美しくて、デパートでおめかしして食べたいケーキの理想系のような佇まいだった。

食後は白鳥公園へ出かけて夜の庭園を腹ごなしがてら散歩した。愛知は来るたびに心からいい街だなぁと思う。愛知で育った人間は愛知から出たがらないというけれど、こんな街で生まれ育ったら確かにそうなのかもしれない。愛知の旅はもう少し続くので、近いうちにまた続きを書ければいいと思う。