東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

私と岩波ホールと神保町

岩波ホールが閉館する報せを受けて、未だに気持ちの置きどころがわからずにいる。

上京して右も左もわからなかった頃、一番初めに居ついた土地が神保町だった。当時のバイト先が御茶ノ水にあったのだ。しばらくしてから、隣町の神保町が馴染みの場所になるのに、そう時間はかからなかった。バイトが終わると明大通りを神保町に向かって下り、明治大学リバティタワーの裏手を抜けて錦華通りまで出る。そのまま靖国通りまで歩いて三省堂書店に入り、本を立ち読みするのが私のささやかな娯楽だった。

そのうち神保町の古本屋にも足を伸ばすようになり、少しずつ世界が広がっていった。古本に混じって浮世絵や古地図が売られている店もあり、そんな店にいく時はいつも少しだけ緊張した。いかにもインテリな客層に馴染めているかを気にして、神妙な面持ちで本を見定めるふりをしたこともあった。毎年10月下旬になると開催される神田古本まつりでは、すでに絶版になった本や珍しい専門書などの掘り出し物に出会えることも多く、何より学生でも買える値段がありがたかった。その時購入した古書は今でも自宅の本棚に並んでいる。

少しずつ生活の見通しが立ってきてからは、街で昼食をとるようになった。さぼうる2で古本を読みながらだらだらと食べたナポリタンは、私の人生におけるモラトリアムの象徴だ。うだるほど暑い日はエチオピアで野菜カレーを食べ、寒い日にはトロワバグでグラタントーストを食べた。二日酔いの日に食べに行った、丸香の冷やかけうどんの染み渡るようなうまさ。少し生活に余裕がある時はボンディのカレーを食べに行き、いもやで天丼を頼むこともあった。柏水堂のマロングラッセも好きだった。見切り品のクッキーがあるときは一緒に買うのが密かな楽しみで、実家に帰るときはプードルケーキを買って帰るのがお決まりだった。ラドリオでもらったマッチ箱は今でも捨てられずにいる。その街が育ててきた古きよきお店が点在していて、それらをつなげば美しい星座が浮かび上がる、神保町という小宇宙。どの店も素晴らしく、当時の私の大切な滋養になっていった。

そうして街が生活の一部になってきた頃、喫茶店で隣の席になった老人たちが映画の話をしているのが聞こえた。彼らは岩波ホールという場所で映画を見てきたらしい。熱の入った討論と、言葉の端端から感じられる作品への想いに感化され、その内容をそっとスマートフォンのメモに記す。その後家に帰ってベッドの中でメモしたキーワードを検索すると、それらしき作品に辿り着いた。明日で上映が終了するというそれがどうしても観たい。そうして翌日バイトが終わったあと、岩波ホールを目指していつもの道を駆けていった。それが私と岩波ホールの出会いになった。

薄暗いビルのエレベーターに乗りこみ、行先の階を確かめるように押す。ぐんぐん上昇するエレベーターに比例するように、乱れた息が次第に整っていく。エレベーターの扉が開いて案内されるがまま受付を済ませ、そのまま中に入ると小さなスクリーンと赤い椅子が整然と並んだ空間が目に飛び込んできた。どことなく古い音楽室を思い出すような空間。好きな席に座っていい映画館というのも初めてで、ソワソワしながら席に着くと、椅子が挨拶するかのようにギイという音を立てた。

岩波ホールと出会ったことを契機に神保町シアターの存在を知り、気がつけばミニシアターの世界に惹き込まれていった。それまでは特に趣味もなく、ただ勉強とアルバイトに明け暮れる日々。そんな生活の中で出会った岩波ホールはあまりにも刺激的で、魅力的だった。当時の私が書いた日記には、そのとき観た映画の感想がページいっぱいに記してある。バイトをして、神保町でお腹と好奇心を満たし、眠りにつく。学生料金の存在もありがたかった。当時、岩波ホールでは最終料金なら1,200円、神保町シアターなら900円で映画を見ることができた。それでも当時は大きな出費だったけれど、明日の食事代を抜きにしても良いと思えるようなかけがえのない時間がそこにはあった。

映画館に着いてわくわくした気持ちで席につき、今か今かと待つ時間。座席を照らす灯りがゆっくりと消えていくときの高揚感。スクリーンを覆う幕が開き、映写機から映像が投影される時のときめき。物語と共に映画館の中の空気が変わっていくグルーヴ感。映画が終わりゆっくりと灯りがともる時の一抹の寂しさ。そして映画館を出て外の空気を吸い込む時の晴れ晴れとした心地よさ。ミニシアターの設備は大手の映画館には劣るかもしれないけれど、その使い込まれた味のある雰囲気も好ましかった。音を立てて軋む椅子、少しノイズの混じる音響、鈍い明るさのスクリーン。今月のラインナップを見て、選んだ人の考えや思想に触れる醍醐味。

自分が孤独でいることすらわからなかった頃、ミニシアターがその渇きを満たしてくれていたのだと、今になってようやく気づく。社会との繋がりが持てずに不安だったとき、自分が自分であることが難しいと感じていたとき、学費のために深夜までアルバイトに明け暮れていたとき、こうまでして大学に通う意味があるのかと悩んでいたとき、常に傍にあったのはミニシアターのスクリーン越しに出会った様々な人々の物語だった。

神保町を出て他のミニシアターに通う機会が増えてきても、岩波ホールの存在感は変わっていなかった。まだ知らない文化へ常に観客を誘おうとするラインナップ。流行や消費に主軸を置くのではなく、何を観客の心に残すべきかを常に考え、上映されてきた作品の数々。観ることに体力を要する作品も多かったけれど、劇場をあとにする時はいつも必ず「やっぱりここに来てよかった」という充足感があった。あの密度の濃い文化に浸れる場所を、なんと形容したらいいのだろう。けれど日本や世界のどこにいっても代替が不可能な場所であったことだけははっきりと言える。岩波ホールは世界を深く知るための足がかりとなるような、波止場のような存在だった。

バイト先を辞めた日、いつも通り神保町へ下って、ずっと気になっていた美鈴堂眼鏡店へと向かった。店頭に飾られているジョン・レノンモデルの眼鏡に憧れていて、いつか買おうと思っていたのだった。緊張した面持ちでお店に入ると、白髪の小柄な婦人に「あらいらっしゃい」と声をかけられる。相手にされなかったらどうしようかと一瞬ひるんだものの、思い切って「あの、お店の前に飾ってある金縁の眼鏡をかけてみたいんです」と言った。彼女は微笑みながら「あらそうなの、ちょっと待ってね」と言うと、ゆったりとした動作でショウウィンドウから眼鏡を出し、試すよう勧めてくれた。

つややかな金縁の眼鏡は、かけてみると元々顔の一部だったかのようにするりと馴染んだ。こんなことってあるのかと驚き、まじまじと鏡を見ていると「ご出身、どちら?」と言われたので「福島です」と返す。しまったと思っていると「あら、いいところね。私東北の人って大好きよ」と予想外の返事が返ってきて、思わず拍子抜けしてしまった。震災が起こってから、出身地を告げると尋ねた相手が気まずそうにするので、こんな言葉がもらえるとは思っていなかったのだ。そのまま、東北の話やレノンモデルの販売経緯についての話を聞く。彼女のチャキチャキとした歯に衣着せぬ物言いがおかしくて、つい話こんでしまった。時計を見てあわてて「話し込んでしまってすみません。これいただいていきます」と言うと「あら、もうちょっと悩んでもいいのよ。試したら買えって言ったりしませんからね」と言われ、思わずふふふと笑った。

お会計をして店を出ようとすると、彼女が「あのね、この近くに喫茶店があるからそちらに寄っていらして。お代は眼鏡から割引しておきますからね」と言う。驚いて固辞しようとすると「こう言う時はね、甘えていいのよ」と言われ、ハッとしてありがたくご好意を受け取ることにした。案内された喫茶店はクラインブルーというお店で、深煎りの珈琲は心を鎮めるような美味しさだった。マスターから「よかったらこちらもどうぞ」と出されたチーズケーキを大切に味わって食べる。関わった人たちの優しさがうれしくてありがたかった。そしてこの時も、店の奥では岩波ホールで見た映画について話している人々がいたのだった。

そんな思い出の美鈴堂眼鏡店も2018年で幕を下ろし、今はそのご婦人がどうなったかは知る術もない。どうか元気でいて欲しいと願いつつ、もうあの店がないことに喪失感以上の寂寞とした想いを抱え続けている。気がつけば大好きだった柏水堂もなくなってしまい、いもやも店を畳んでしまった。キッチン南海、酔の助、それからスヰートポーヅ。知っている店がなくなることが、こんなにも寂しいと知っていたらもっと足繁く通ったのに。しかしそんなことを思ってももう遅く、そして同じ形で岩波ホールを失おうとしている今、ただただ言葉にできない思いが胸の中に渦巻いている。

良い街というのは回遊性が高い街、と聞いたのは大学での講義だった。生活圏内にその人がその人らしい姿で立ち寄れる居場所がある街。それが点在して、人々の回遊性が高くなるほど都市はその魅力を増す。講義ではそれをサードプレイスと呼んでいた。場と会話があって安心して過ごせる場所。私にとってそれは岩波ホールと神保町だった。

映画を見て、その感想を安心して語り合える場所がある。それが周囲の人生に直接的に、あるいは間接的に波及していったり、文化として蓄積されていく街。岩波ホールで蒔かれた種子は、そこに訪れる観客によって、この街で、そしてどこか遠くの街へと確実に運ばれていた。新橋文化劇場・ロマン劇場も、三軒茶屋劇場もなくなってしまったけれど、岩波ホールはずっとあると無邪気に信じていた。あの多感な学生時代を神保町で過ごせたことは、今でもかけがえのない想い出になっている。願わくばこれからも、あの街を必要とする人のためにもどうか続いていってくれたら。身勝手にもそんなことを、今になって何度も何度も願ってしまう。

閉館まで残り数ヶ月。不義理をしてしまった分、岩波ホールの扉が開いているうちは、あの頃のように足繁く通おうと思う。そうして映画を見た後は、あの頃のように丸香でうどんを啜って帰ろうか。あるいは映画の余韻に浸りながらBIG BOYでレコードを聴いてぼんやりするのもいい。家に帰りたい気分になったら、STYLE'S CAKES & CO.で焼き菓子を買ってもいいし、タカノで紅茶の葉を買って帰ってもいい。そうしてその日が来るまでは、いつか来る喪失について受け入れる準備をしながら、愛すべき街を静かに回遊していよう。そしてこの街から与えられた文化の種子を、私もどこかの街でそっと撒いていこう。

f:id:lesliens225:20220320215226j:plain

2022年2月、この日はジョージア映画の『金の糸』を見て、コーヒーを飲んで帰った。