東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

冬の北海道を巡る旅#4  サッポロピリカコタンから開拓の村、そしてサッポロビール博物館へ

帯広から山を越えて高速で約3時間半、向かう先はサッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター)だ。セコマで買ったおにぎりを食べ、車を走らせていく。札幌市内に差し掛かると積雪量が目に見えて増えていくのがわかった。札幌出身の友人によれば、札幌以西は日本海側にあたり山も多く、またシベリア大陸からからっかぜが吹くので、東と比べて積雪量が多くなるらしい。

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途中、休憩を挟みつつやっと目的地までたどり着くことができた。積雪量はゆうに1mは超えている。積もった雪にもたれかかると、フカフカのパウダースノーで身体がズズ...と沈み込んでいった。

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駐車場に車を泊めて敷地内に入ると、復元されたアイヌの住まいと、ゴールデンカムイにも登場したペペレセッが目に入った。ペペレセッとは小熊を育てるための檻。アイヌは狩猟の際に出会った小熊は、カムイから養育を任されたものとして生け捕りにし、コタン(集落)で育てる風習があったと言う。そういえば狩猟の様子は以前東京ステーションギャラリーで展示されていた「藤戸竹喜展 アイヌであればこそ」にもあったな、ということを思い出した。頭の中にある記憶がその土地にある記憶と結びついていくのを感じる。

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そのまま雪道を進んでいくと、左手にはプ(倉)右的にはチセ(アイヌの住まい)が見えてきた。

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チセの中に入ると土間のような玄関があり、広々とした間取りの住居スペースが目の前に広がっていた。想像していたよりもずっと大きく、大人が十人以上入ってもまだまだ余裕がある。そして意外と暖かい!

中央にはアペオイと呼ばれる炉が据えられていた。この中には火の神様であるアペフチカムイがいるとされ、大事にされてきたそうだ。アイヌはこの上にトゥナという炉だなを設け、保存食を作ったり調理をしたりと工夫して生きてきたのだという。

また、チセにはいくつか窓が設けられているので、思っているよりもずっと明るい。向かって正面の窓はロルンプヤㇽと呼ばれ、明かり取りだけではなく、カムイが出入りする窓(=カムイプヤㇽ)として大切にされてきたそうだ。住居ひとつとっても、生活の至るところにカムイがいる。

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屋根の組み方も興味深い。おそらく地組で屋根の骨格を決めた後、それに合わせて放射状に細い木をのせていき、最後に藁などを載せているのだろう。断熱としても優れているし、同時に煙を外に逃すことも可能だ。これなら雪深い北海道でも、生きていくことができる。

聞くところによれば、北海道に入植した和人たちも、このチセを真似て住居を構えていたという。始めは本州の住まいを模して板張りの家を作ったものの、そうした住居は北海道の厳しい寒さに耐える事ができず、結果的にチセを真似た住居に住んでいた和人の方が生存率は高かったらしい。

またアイヌたちは老人が亡くなった時は、カオマンテというチセを燃やす儀式を行い、死者を弔ったという。これはあの世に行く死者に家を与えるという意味があったそうだ。この儀式は1871年同化政策のもと開拓使によって禁止を言い渡され、また明治以降チセは建造されなくなっていった。

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奥に進むと、野外にはアイヌが外洋のために使用したとされる、イタオマチㇷ゚も展示されていた。この舟でアイヌは漁だけでなく、海を渡って交易なども行なっていたのだそうだ。イタオマチㇷ゚は1本の木からベースとなる舟底を削り出し、そこに波しぶきを防ぐための羽板やとも板、飾り板などを貼り付けて作り上げられたもの。造船に使える道具が限られているにも関わらず、このような優れた舟を作る技術があったことに驚く。 

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さて、外を見学した後は、いよいよサッポロピリカコタンの中へ。

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館内は地下に向かって進む構造になっており、展示室に向かう道にはアイヌの工芸品などが展示されていた。流線が美しいこのストリートギャラリーは、緩やかな川の流れをイメージして作られたのだという。

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展示の一部には、皮剥用の小刀「イリマキリ」と子供用の鹿の毛皮である「ユゥクㇽ」、手を守るために使用された手甲「テクンペ」に、狩りに行く時にすねあてとして使用されていたという「ホ」などがあった。アシパさんが使っていたものに似ている。

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また、狩猟や採集には欠かせない「マキリ」に女性向けの小刀「メノコマキリ」、女たちが代々受け継ぐ装飾品「タマサイ」も展示されていた。特に興味深かったのが「タラ」と呼ばれる荷物を背負うための縄。ニペと呼ばれるシナの木の皮を編んだ紐に、タリペと呼ばれる額当てのついた不思議な縄。これはアイヌたちが万が一熊に襲われた時に、頭を後ろに引けば即座に身軽になれようにと考えられた末の形状なんだそうだ。彼らの工芸品から、どのように狩猟を行い、生き延びてきたのかを知っていく。

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館内の奥にある有料の展示室の中には、狩猟道具を始め、衣類や食器などの生活用品、さらには育児用品や、楽器などといった多種多様な文化資料が展示されていた。

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その中でも一際目を引いたのは鮭の皮を用いて作られた「チェプケレ」と言う靴。アイヌにとって鮭とはカムイからの贈り物。そのまま食べるのはもちろん、干せば保存食にもなり、骨や軟骨、皮までも余すことなく使い切ることができる。それをまさに体現した靴だった。(館内の映像コーナーでは彼らが鮭を調理する過程を知ることができる。鮭の頭蓋にある軟骨をなめろうのようにチタタㇷ゚したものがとても美味しそうだった)

「どの部位をどのように使えば生活にとって最も役立つのか」と思考を巡らせ工夫を重ねて、1足の靴を鮭の皮から作る、その発想の柔軟さと豊かさ。アイヌの人々にとって自然とは制圧や所有の対象ではなく、あくまでも共生を念頭においた関係だったのだろう。

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そしてもう一つ印象深かったのが、このメノコイタ。現代におけるまな板とボウルを組み合わせたもので、来客用のいわゆるカッティングボードとしても利用されていたという。現代の生活様式にあってもおかしく無い、むしろ画期的な生活用品だ。

ちなみにこのメノコイタは、2020年東京五輪のライセンス商品としても販売されていたらしい。2022年4月現在、北海道で伝統工芸品として認められているのは二風谷イタと二風谷アットゥシの2つのみだという。

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館内にある化粧室でも、積極的にアイヌ語が使われていて勉強になった。「メノコ」は女性、「オッカヨ」は男性を指し、「ル」は便所という意味。

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内部にはチャヌプーウシ(情報コーナー)も設けられており、アイヌに関する書物や絵本などを読むことができる。この他にも館内には、アイヌたちの生活史を映像で見られる場所があり、アイヌの食文化や生活様式などを様々な媒体を通して学ぶことができた。*1こうしてアイヌに関する潤沢な資料に出会える喜び。それでも全て読みきることはできないので、気になったものはスマートフォンに書籍のタイトルをメモしていった。

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また、館内には「アイヌ神謡集」の作者、知里幸恵が残した<銀の滴降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに>と言う有名なフレーズが、一枚の大きな白紙にのびのびとした書体で記されていた。写真には収めず目に焼きつける。

そのまま作品の隣に掲載されている釈文の続きが気になったので「アイヌ神謡集」を開いてページをめくる。そこにはアイヌの言葉を心血を注いで残そうとした女性の、胸を打つような言葉がしたためてあった。*2

私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無情の幸福に存じます。

そう語る彼女のことを、彼女の言葉を、私は今日この時初めて知った。アイヌの両親から生まれ、類稀なる言語能力を持ち、同化政策の元で消えていこうとするアイヌと、そのユーカラを一冊の本としてまとめあげた知里幸恵。あの時代に、このような女性がいた。次に北海道を訪れるときは、登別にある彼女の記念館を必ず訪ねよう。そう心に誓った。

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続いて向かった先は、北海道開拓の村。チケット売り場はこの館内にある。建物の名前は旧札幌停車場。現在のJR札幌駅の先輩に当たる建物だ。

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ここに来るまで登ってきた階段を振り返ると、埋れて雪で出来たかのようになっていた。携帯していた簡易アイゼンがなければおそらく滑って転げ落ちていたに違いない。

そして驚いたのがその敷地の広さ。訪れるまでは江戸東京たてもの園ぐらいの規模感を予想していたのだが、なんと敷地面積は54.2ヘクタールとその約8倍。東京ドーム約11個分と、とても1日では回りきれない広さだ。村内の案内図を見て、呆気に取られてしまった。

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こ、こんなの今日だけで見れるわけがない!サッポロピリカコタンで時間を使いすぎてしまい、この時すでに時間は15時になろうとしているところ。閉館までは1時間半しかない。自分のリサーチ不足を呪いつつ、とにかく走って見るしかないと、ダッシュで回る。

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入ってすぐ左手には復元された開拓使札幌本庁舎が存在していた。これまで見てきた洋風建築とは異なり、上部には展望台が備え付けられている。ウー、じっくり見たい!

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そしてその向かいには、ゴールデンカムイの第50話「春雷」で殺人ホテルとして登場した旧浦河支庁庁舎があった。実物はパステルピンクの外壁にえんじ色のラインがアクセントになっていて、なんとも可憐な造り。ああ、中に入って見たい!

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そのまま左手の道に入り、北海道開拓の立役者となった福士成豊が住んでいたとされる旧福士家住宅、村民によって創建された旧雲龍寺、鰊建網漁で一財を築いた旧青山家漁家住宅などを急ぎ足で見ていく。

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さらに神戸から結社移民として入植したキリスト教徒たちのために建てられた旧浦河公会会堂、長野県出身の入植者たちが多く住む信濃開墾地に建立された旧信濃神社、大正末期にアメリカの様式に倣って建てられた旧小川家酪農畜舎なども息を切らしながら見る。
キリスト教神道に仏教と、北海道の入植者が自分たちの拠り所となる宗教建築を無作為に建てていった事がこれらの建物からもよくわかる。アイヌたちはこの建物を見て、いったいなにを思ったのだろう。

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しかし走れども走れども回りきる事ができない。走りすぎてみぞおちは痛いし、口の中は血の味がする。意図せず第7師団に追われて逃げ回る杉本の気持ちを味わえちゃったな、ハハ...と力なく笑っていると夫に励まされた。

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駆け足で回っていたはずなのに、時間はすでに閉館15分前を回ろうとしている。山村郡の建物を見る時間はさすがに無いと判断して、泣く泣く元きた道を引き返す。

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また農村群から市街地群に戻ってきた。足がちぎれそうになりながら、大正後期に建てられた旧山本理髪店、明治期に皇太子の行啓に合わせて煉瓦造りで建造された旧札幌警察署南一条巡査派出所、そして木造建築の病院として建てられた旧近藤医院をダッシュで見ていく。

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もう一歩も進めないくらい疲労しているが、出口まではもう少し。洋風事務所建築の特徴をたたえた旧開拓使工業庁舎、札幌軟石を外壁に用いた旧小樽新聞社、石川から小樽へと移住した人間によって経営された旧三〼河本そば屋を、足を引きずるようにして見ていった。

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最後は屯田兵として入植した来正策馬が、退役後に待合室兼旅館として開業した旧来正旅館。尾方が鴨を採ってきた場所でもある。振り返ると来た道にたくさんの旧建築が軒を連ねているのが見えた。建築の中に入るのを我慢して走り回ったのにも関わらず、まだ半分しか見れていない事実に愕然とする。

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ヘトヘトになって開拓の村をあとにすると、全身の汗が一気に冷えていくのを感じた。風邪をひかないように急げ急げと駐車場へと向かう。無事車に到着すると、夫がエンジンをかけながら「ここ、今度は夏場にリベンジしようよ」と言うので、ゼエゼエしながら「そうだね」と答えた。次に来るときは丸々1日時間をとってこよう。

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開拓村を出た後は、夫がサッポロビール博物館に連れていってくれた。「昔きた事があってね、見せたいと思っていたんだ」と言う。サッポロビール博物館の裏手にはショッピングモールのArioがあり、名古屋にあるノリタケの森を思い出した。(ノリタケの森には明治末期に建造された煉瓦造りの旧整土工場が残っており、その隣にはデカいイオンモールがあるのだった)

入り口には大樽が並んでいて、何か文字が書いてあるものの下段が雪に埋れていて解読できない。調べると、この大樽には「麦とホップを製すればビールという酒になる」と言う文字が書いてあるらしい。国産のビール作りという事業がいかに困難な挑戦であったのかが、この一文から窺い知ることができる。

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閉館10分前ということで資料館の中には入れなかったものの、外から見ているだけでも充分満足だった。星をかたどったステンドグラスに押上式の窓。開拓時代のトレードマークである五稜星も健在だ。レンガはイギリスで製造したものと、一部道内で製造したものが使用されている。現在は建物保存の観点から重要文化財の登録は辞退しており、サッポロビール自身が管理を行っているのだという。

ところでこの工場は、元は札幌製糖所の建物だった。元々は札幌で甜菜を育てて砂糖にする事業を始めるために建造したものの、蓋を開けてみれば甜菜に含まれる含糖率は著しく低く、価格が高い割に品質は既製品に劣っていたことなどから、徐々に経営は赤字となっていったそうだ。この経営難から株券の偽造などの不祥事が相次ぎ製糖事業は解散、結局ビール事業で儲かっていた札幌麦酒株式会社が工場を買収して現在に至るのだという。(なお、この黎明期における失敗は、のちの台湾製糖事業にて活かされることとなった)

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現在は工場内の見学ツアーなども開催しているとのことなので、次に札幌に来ることがあればぜひとも参加したい。心ゆくまで建物を眺めた後は、ガーデンショップでお土産とホテルで楽しむ用にサッポロクラシックと開拓史麦酒を購入。

ホテルへと向かう道すがら、運転する夫に「そういえば私が初めてサッポロビールを飲んだのは、大通公園のビアガーデンでなんだよ」と言う。毎年夏の北海道で開催される、まるでフェスのようなビアガーデン。そういえば昔、札幌出身の友人が「上京したてのとき、都内のビアガーデンがどれもしょぼいことがショックだったんだよねぇ」と言っていたことを思い出す。確かにこの規模感だと、都内のビアガーデンは箱庭のように見えるかもしれない。

そんな私を横目に「いいなぁ、俺も行きたいな」と夫が言う。あの晴れ渡った空の下で、大勢の人たちがビールを片手に賑わう光景を眺めながら、喉を鳴らして飲む黄金色のサッポロビールの美味しさを、いつか夫にも教えてあげたい。

 

 

 #5に続く

lesliens225.hatenablog.com

注:本記事におけるサッポロピリカコタン内の写真は、事前に掲載許可をいただいております。無断転載、恣意的な引用は固くお断りいたします。