車を走らせること数十分。今日の宿泊先は札幌グランドホテル。1934年に北海道に初めて誕生した洋式ホテルだ。故秩父宮殿下がこの地を訪れた際に、札幌五輪の開催を見越して「札幌に本格的な様式ホテルをひとつ建てたら」と提案したことで、開業にまで至ったという歴史がある。ちなみにこの年は、北海道に住む人々の人口が300万人にまで増えた年でもあった。
創業時の旧館はすでに解体されてしまったものの、クラシックホテル好きとしてはぜひ行きたいと予約をしていた。しかし到着して館内を見ると、なぜだか既視感がある。あっと気がついて「ここ、昔泊まったホテルだわ」ということを思い出した。すっかり忘れていたが、5年ほど前に友人が札幌で結婚式を挙げたときに、このホテルにしっかり宿泊していたのだった。
正面入口のスズランをモティーフにした引き手の可愛らしさは健在だ。
エントランスの蝶々のようなこの壁面も可愛らしい。
ロビーに入ると、1941年から受け継がれているオニキスでできた荘厳な柱が出迎えてくれる。フロントへ向かおうとすると、スタスタと係の方が近づいてきてくれて、荷物を持ってベンチへと案内された。疲れていたので、夫がチェックインを済ませている間、ありがたくそこで休ませてもらう。由緒正しいホテルだからだろうか、華やかな人たちが楽しそうに横切っていく姿を何度も見かけた。
チェックインを済ませると、そのままエレベーターホールへと案内された。エレベーターの近くにはバーもあり、ここでお酒を楽しむこともできる。宿泊者以外の人も利用でき、その敷居の低さがありがたい。
バーに続くまでの道も雰囲気があっていい。思わず当時の記憶がよみがえって「そうそう、ここでお酒を飲んだわ。懐かしい」と言う。友人の結婚式に参列する前夜、なぜか目が冴えてしまったので、ナイトキャップがわりにマティーニを作ってもらったのだった。つかず離れずの接客が心地よく、バーテンダーのパリッとした白いスーツに蝶ネクタイという清廉な姿が印象に残っている。
そのままエレベーターを降りて部屋へと向かう。ロイヤルブルーの絨毯は清潔で、フカフカとしていて気持ちがいい。
今回宿泊するのはスタンダードデラックスツインルーム。ドアを開けると予約サイトで確認していたよりも、かなり広々としている印象だった。
ベッドの真ん中にはメモや時計、ルームサービスにつながる電話などが置かれている。必要であればモーニングコールもしてもらえるらしい。また連泊する際は、ベッドリネンの交換を申請する必要があるとのこと。
さらに扉を開けると、聖書や古事記などの書物が入っていた。
ベッドの前にはテレビもあるので、ゴロゴロしながら放送などを見ることもできる。
ルームウェアは一枚で着るタイプ。胸元に入ったマークが可愛い。
さらにベッドの奥にはこぢんまりとしたテーブルと椅子が置いてあり、奥にはプレッサーも用意されていた。ビジネスや冠婚葬祭のために宿泊する人もいるのだろう。細かいところまで気が利いている。
ミニバーは無料のミネラルウォーターが2本と、緑茶とほうじ茶のティーバッグが備え付けられてあった。
扉を開けるとミニ冷蔵庫にグラスとマグカップ、それからケトル。必要なものは揃っていて、尚且つ視界に入らないところに収納されているので、ノイズが少ないなと感じる。
ベッドの脇には机もあり、なんとライト付きの拡大鏡まで備え付けられていた。メイクをするときに助かる。ちゃんとコンセントもあるし、リモートワークにも良さそうだ。
テーブル周りには観光案内やホテルからのインフォメーション、ライトニングケーブルなどが一式揃っている。他に必要なものがあればフロントにお願いすればいいらしい。なんとも使い勝手がいいなぁ。
バスルームは洗面台が2つあり、白いタイルを基調とした清潔感のある空間だった。これなら二人以上の旅行でも気兼ねなく使えていい。
アメニティは歯ブラシにヘアブラシ、綿棒にコットンなど、必要なものは一通り揃っていた。スタンダードルームのスキンケアのアメニティはフロントにお願いすると持ってきてくれる方式らしい。コンフォートルームやスイートルームではアメニティが変わってくるらしいので、こだわりのある人は事前に確認しておいた方が良さそう。
ドライヤーはパナソニックのEH-NE4E-PN。申し分ない風量だし、音もそこまで煩くないのがありがたい。
バストイレは別で、バスルームはやや狭めながらも落ち着いた造り。華やかさや色気はないけれど、家にいるかのような安心感があってこれはこれでいいなぁと思う。シャンプーやボディソープはPOLAのシャワーブレイクシリーズだった。
タオルはロゴが色分けされているので、誰がどのタオルを使ったのかが一目でわかる。たまに「あれ?これって夫が使ったやつだっけ?」とわからなくなってしまうことがあるので、これなら間違えなくて済む。
ホテルは広々としていてのんびり過ごせる間取りが印象的だった。確かに古いところは否めないけれど、きちんと清潔感が保たれているし、新しいものと古いものの取捨選択のバランス感がいい。どうせ寝に帰るだけだからと安価な部屋にしたけれど、このホテルを拠点に札幌を楽しみたい時は、コンフォートルームやスイートにするのも良さそうだ。スタッフの目配りや気配りも徹底されていて、素晴らしい仕事ぶりだった。
部屋を確認した後はタクシーに乗って、今夜の夕食のため予約していたお店へ。
タクシーを降りてあたりを見回すと、雑居ビルの看板にお店の名前が見えた。お店に行くにはどうやら階段のみらしい。いざ4階までと、気合を入れて登っていく。
お店の入り口は波模様のガラス扉でできていて、中の様子がぼんやりと見える。恐る恐る「こんばんは」と言ってドアを開けると、古民家の中にいるような暖かみのある空間が広がっていた。
落ち着いていて、それでいながら非日常感が溢れるしつらえ。ほーっと見惚れていると、小柄な女性が明るい笑顔で出迎えてくれた。予約していた名前を告げて、席へと案内される。
私たちの席にはぼんやりとした電球が浮かび、壁には燕のモチーフが並んでいた。かわいいね、この仄暗さが落ち着くねぇと、席についてすぐ自宅かのようにくつろいでしまう。
この日お願いしたのはお任せコース。お料理が来る間は、渡されたメニューから飲みのものを選んでいく。ビールやワインだけでなく、ソフトドリンクのメニューに中国茶があったりと、下戸にも楽しいラインナップだ。
夫はビールを、私は白のグラスワインをお願いした。旅が始まってから初めてのアルコールに喉が鳴る。ビアグラスの下に置かれたコースターも可愛らしい。ここで使われている道具の一部は、同じビルの中にある小道具十一月というお店で選ばれたものなんだそうだ。次に来た時は行ってみたい。
そうこうしているうちに、前菜が運ばれてきた。野菜のお浸しの盛り合わせとニシンのフリット。宝石のようにぴかぴかで鮮やかな野菜に目が釘付けになる。一口食べて、その瑞々しい味と出汁の美味しさに目を見開いた。ちゃんと野菜の味がする。1つ1つの野菜がキラキラしている。そして時折光るのは、かそけき出汁。ニシンのフリットの衣は軽やかで身はふわふわ。どちらも塩が素材の美味しさを利かせる程度の塩梅なので、単調さが無く食べていてまったく飽きがこない。
続いてやってきたのはミニせいろの中に入った焼売と南瓜の春巻き。焼売はもちろん、この春巻きがとっても美味しかった。昔、何かの本で「春巻きは蒸し料理」と書いてあるのをみたことがあるけれど、その意味が今日初めてわかった。ホクホクに蒸された南瓜、パリッとした皮。間にある野菜の食感がコントラストになっていてしみじみ美味しい。
メインはお肉とさつまいも。お肉はもちろんのこと、やはり野菜の調理がいい…美味しいねぇ、美味しいねぇといいながら、ふたりであっという間にお皿の上を平らげた。
もう一皿は鰆。付け合わせの人参、芽キャベツがやはり瑞々しい。野菜がとにかく美味しいので尋ねると、美瑛の農家さんからお願いして取り寄せているとのことだった。北海道はまだまだ冬だと思っていたけれど、もうこんなに美味しい野菜が出回っているんだ。そういえば魚も春のもの。ずっと先だと思っていた春の訪れを、お皿の上に並ぶ食材から教えてもらう。
最後はご飯とお味噌汁。枝豆の乗ったおこわはホクホクで胡椒が効いている。ご飯ものだけれど、これでお酒もいけちゃいそうだ。大根のお味噌汁は赤味噌のキリリとした味。事前にお願いすれば、これをおつまみセットに変えることも可能。「二人で別々にすることもできますよ」と教えてもらい、夫はいそいそとおつまみセットに変更していた。
おつまみセットは趣味のいいプレートにピクルスやドライフルーツ、チーズなどが盛り合わせられていた。夫は「えー、どれにしようかな」とニコニコしながら、ビールと一緒に楽しんでいた。
最後はデザートが出るというので気になっていた中国茶をお願いした。ふくよかな香りにほっと癒される。器が2つ運ばれてきたので夫にも注いで渡した。昔はアルコールに強かったのにね、やっぱり外食しなくなってからお酒に弱くなったよね、なんだかこういうのがしみじみ美味しいと感じるようになったよね、などと会話に花が咲く。
最後のデザートはカカオのチュイルがのったチョコレートのアイスクリーム。パリパリ、ひんやり、とろりの食感がリズミカルで楽しい。実はチョコレートの酸味と渋みが不得意なのだけれど、ここのデザートは苦味が強く酸味の薄い構成だったので、最後まで食べきることができた。
すっかりいい気分でお店を出て、ほろ酔いで狸小路を歩く。かわいい名前だなと思って調べると、昔このあたりには売春宿があったらしく、客引きをする娼婦を狸になぞらえたことからこの地名になったらしいことが書いてあった。
そのままホテルのある方角へ向かうと、テレビ塔が見えてきた。夫が近くに行って写真を撮りたいと言うので一緒に向かう。以前ここにきたときはビアガーデンが開かれていて、結婚式前夜の友人がわざわざもてなしてくれたことを思い出した。あの時は楽しかったなぁ。今は雪がうず高く積もっていて、踏むとこ踏むとこみな白い。
真っ白な雪にぼんやりとたたずむテレビ塔は情緒があっていい。札幌で過ごすうちに心の風景になっていきそうな気配がある。
なんだかすっかり楽しくなってきてしまって、なんとなくホテルにはまだ帰りたくないなぁと思う。そうだ、昔来た時に友人と見た時計台を夫にも見せよう。そう思って誘ってみると、いいよ行こう行こうとふたつ返事で乗ってくれた。近くの入り口から地下道に降りて時計台へと向かう。地下道の中は少し暖かくて、外とは別世界だった。よく見ると柱には2030年札幌オリンピックの招致に関するポスターがあちこちに貼られていた。
地下道から出て歩くこと数分。時計台にたどり着いた。相変わらずきれいだ。日本三大がっかり名所と言われているけれど、そう感じたことは一度もない。むしろ見るたびにしみじみといい建築だなと思う。どうかいつまでもこの建物が札幌に残り続けてくれますように。一緒に見ていた夫に「波よ聞いてくれのオープニングにも出てたね」と言われ、そう言われれば確かにと気がついた。
時計台の隣には、ミニチュアの氷でできた時計台もあった。精巧な作りに感心する。そういえば今年はさっぽろ雪まつりもなかったんだよなぁ。来年はできるといいよね、その時はまたここに泊まって美味しいご飯を食べて、公園をのんびり歩きたいねと言う。
時計台の写真を撮ってホテルに帰ろうとすると、足元のマンホールに目がとまった。鮭が時計台の周りをぐるりと回遊するようなデザインが格好いい。アイヌの人にとっても、そして北海道に移住した和人にとっても、鮭というものはこの土地の象徴的存在なのだろうか。
もし私が東京のマンホールに絵柄を描くとしたらなんだろう?荒川を渡ってスカイツリーが見えると「東京に来たなぁ」と思うから、やっぱりそのふたつを描くかもしれない。
#6に続く