東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

病める時も健やかなる時も、彼女がフェミニズムにめざめた時も、あなたは愛を誓えますか? ミン・ヒジョン『僕の狂ったフェミ彼女』

ラブ・ロマンスは永遠の命題だ。

家同士の対立のなかで愛を貫いた「ロミオとジュリエット」、画家志望の少年と上流階級の娘の悲恋を描いた「タイタニック」、韓国で実業家として活躍する社長と北朝鮮の軍人が恋に落ちる「愛の不時着」。

ラブ・ロマンスの主役のふたりには、いつも対立構造がつきまとう。これらは現実世界にも横たわっていて、一般的には解決不可能だと認知されているものだ。しかし主役のふたりは愛の力によって、これらの対立構造を乗り越えようとする。

本来出会うことのないふたりが、出会って恋に落ち、時に世界を変容させるほどの影響力を持つ。そこには現実にはあり得ないとわかっていても、このふたりなら世界を変えられるかもしれないと錯覚するような切実さがある。魅力あるフィクションは現実世界にも作用し、観客に対してカタルシスを経験させる力を持つ。ラブ・ロマンスは差異があってはじめて生まれる物語だと言ってもいいだろう。

しかし、その対立構造が思想による場合、ふたりはラブ・パワーによって互いの差異を理解し、対立構造を乗り越えられるだろうか。ミン・ジヒョン著「僕の狂ったフェミ彼女」は、そうした疑問に真正面から挑んだフェミニズム小説だ。

物語の主人公であるキム・スンジュンは、ある日街角で別れた元カノに再会する。元カノはフェミニストとしてリプロダクティブ・ヘルス・ライツのデモに参加していた。スンジュンは、フェミニストになった彼女の変化に戸惑いつつも、ヨリを戻すために必死に食い下がる。そんなスンジュンに根負けした彼女が提案したのは「付き合ってみて…もしあんたが先に嫌になって音を上げたら…百万ウォン払うの」ということだった。

物語はスンジュンの一人称で進み、読者は彼のまなざしから物語を体験することになる。スンジュンは明らかにハンナム*1で、フェミニズムに無理解なのだが、本人にはまったくその自覚がない。自分は女性にやさしい。彼女たちは守って然るべき存在だ。そして愛情を持って接すれば、彼女はフェミニズムから目覚めてくれると信じている。

目の前の彼女を知ろうともせず、シュガーコートされた理想の恋愛をぶつけては、良い反応が得られないとふてくされるスンジュンは、ハンナムというよりももはや自我のない子供だ。彼女の地雷を踏まないように細心の注意を払い、顔色を伺いながら言葉を飲み込み、時には茶化そうとするスンジュンの姿は、腹立たしさを通り越して滑稽ですらある。

「かわいそうに。どんなに嫌だったか。可愛すぎるせいだよ」
そう言いながら彼女をぎゅっと抱きしめようとした。しかし彼女は僕を押し抵抗した。
「いや、そういうことじゃなくて。働いてる女は誰でもこういうことを経験するんだよ」
「うん、そうだね。わかった、わかった」

ーー5章 スタートはしたけれど 82ページより

「ただ心配なんだ。気をつけるに越したことないだろ。ならこうしよう。好きなようにしていいよ。飲みたきゃ飲んで、人に会いたきゃ会って。その代わり、遅くなる時は僕が迎えに来る」
「私は自分の母親に心配されるのも嫌で実家を出た人だよ。あんたの顔色うかがわなきゃいけないなんて絶対嫌」
「顔色うかがえなんて言ってないだろ。僕の気持ちがわからない?」
他の女なら喜ぶはずなのに。こんなに遅くなったのに迎えに来ないのかって騒ぐくらいなのに。

ーー12章 計画通りに進んでいる 245ぺージより

韓国では2016年の江南駅殺人事件を契機に、ミラーリングを用いた文学作品や、マイノリティを主役にした物語が数多く生まれているが、男性側の認知形成、即ちミソジニーの論理を取り込んだ文学作品は多くはない。一方、本作はスンジュンの視点から「狂ってしまった」彼女を見せることで、韓国社会におけるマジョリティ男性の認知を表現している。韓国でマジョリティ男性が普通に生活していればハンナム、すなわちミソジニストとしての価値観が形成されていき、そしてそれについて疑問に思うことはないーーその背景を炙り出すことに挑戦している本作は、その点において画期的な作品と言っていいだろう。

ミソジニーという単語は女性嫌悪と訳され、しばしば女性を嫌い憎む者として単純化されているが実態は異なる。ミソジニーとは男性稼ぎ主モデルの社会において、女たちを自立した主体として認めないこと、及びそれに該当しない男性を男として認めず排斥することのすべてに該当する。女性が社会的役割規範から逸脱する行為を監視し、そぐわないと判断した場合は抑圧することと、「彼女を守ってあげたい」と願うことや「セクハラ野郎は俺がねじ伏せてやる」と思うことの根幹は同じところにある。一方的な思い込みと陶酔、望まない愛情の押し付け。お姫様願望ならぬ王子様願望。コメディ調な筆致とは対照的に、物語が暴くのは愛という欺瞞だ。

こんなに長い間、丹精込めて努力してきたのに、彼女はここに来て止めを刺すかのように、僕の希望を無残に踏み潰してくれた。
すごく腹が立った。こんなに良い彼氏の僕が、こんなに心から君が好きで、こんなに頑張ってるのに、君も明らかに僕が好きなのに、どうして変わってくれないんだ?
人をおかしくさせるのにもほどがある。
「闘士にでもなったって勘違いしてるみたいだけど、世の中がそんなに簡単に変わると思ってんのか?変わんないんだよ!」
「少なくとも私は変わるはず」
本当に、一歩も譲らないその態度に、僕もいい加減ウンザリだった。

ーー13章 結婚式場で 279-280ページ

「自分がすごくロマンチックで優しいと思ってるでしょ?あんたの愛し方、可愛がって、女の子扱いして、守るって建前で束縛して、みんなの前で着飾って式あげようってせがんで。私はそういうの望んでないんだって。なのに自分のやり方を強要し続けているよね。それがどんなに息苦しいかわかる?本当に自分勝手なのはどっち?」
ーー13章 結婚式場で 281ページ

結局、物語においてふたりは結ばれることなく終局を迎える。スンジュンが劇的に変化してフェミニズムに目覚めることもなければ、彼女がフェミニストであることを放棄して結婚を選ぶこともない。ただそこにあるのは分かり合えずに破局したという事実だけだ。けれどこの恋愛が無意味だったのかと言われればそれは違う。なぜならラストシーンでスンジュンの中に、彼女を心から理解しようする気持ちの萌芽が生まれるからだ。

冒頭でラブロマンスは差異によって生まれる物語だと述べた。何もかも異なるのにも関わらず、知らずにはいられない存在が自分の世界に現れた時、人は全身全霊で相手を理解することに努めようとする。それは相手をカテゴライズし、色眼鏡で見ているうちには叶わない。それまでの価値観や信念、自分を構成していた規範から離れて、個人として相手を知ろうとして初めて、ラブ・ロマンスの口火は切って落とされる。

皮肉にもスンジュンがこれまでラブ・ロマンスだと思っていたものは独りよがりの恋だった。その証拠にこの物語においてスンジュンの目線から描かれる彼女は、常に不機嫌で怒りっぽく女らしくない不可解な女として描かれている。けれど本当にそうだったのだろうか。あの時、電話越しで、あるいは抱き合いながら、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。

被害者意識が強すぎる、共感すればいいんだろう、男だって苦しいんだーーそう思っていても言えない、なぜなら相手が怒るから。世間から間違っていると叩かれるから。そう思って対話を諦めるなら、まずは目の前の相手を見つめてみるところから始めてみればいい。愛とは、異なる立場の人間を理解しようとする、その真摯さから生まれるものに他ならないのだから。「僕の狂ったフェミ彼女」は、分断されていこうとする世界において、まずはあなたと対話することの重要性を、そしてその実践を示した指南書であり、フィクションが切り開いていける可能性の地平を示した作品だと言えるだろう。

愛と権利の狭間で揺れながら、ありたい自分を選択した彼女と、スンジュンの認知にわずかな変化が見られるラストは、ラブ・ロマンス界における新たなハッピーエンドだろう。それでも彼らが結ばれなかったことについて残念に思うなら、彼女の言葉を反芻すればいい。

「だけどほんと、正直さ、考えると怖くならない?将来、旦那も子供もいなかったら寂しいんじゃないの?」
「その代わり、私がいるはず。たぶんね」

*1:韓国語でミソジニストを指す言葉。本作に度々登場する。