東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

選挙~

週末は雪になると言うので、期日前投票に行ってきた。近所の投票所はアットホームな雰囲気で、ガスストーブの前で誘導係のおじさんたちが暖をとっていたり、親の付きそいで来たのであろう、年長くらいの子どもとハイタッチしていたりと、長閑な雰囲気だった。しかしこうして暖をとっているおじさんや、ハイタッチをしたおじさんにも政治思想はあるのだよな、などと思う。

投票所ではいつも通り、もたついてしまった。あんなに調べつくして投票する候補者や政党を決めたにも関わらず、記入台の正面に掲げられた紙を見ると、本当にこれでいいのかと悩んでしまう。自分の1票を、議席を取れる確率が高いところへ投じるか、あるいは自分と思想信条が似通っているところへ投じるか、はたまた与野党のバランスを考えて投じるか。いつかはサッと書いてすみやかに投票し、さっそうと投票所をあとにしたい。投票を終えて出口に向かうと、待ちくたびれた様子の夫が待っていた。

投票所には杖をついてくる人もいれば、車いすに乗ってくる人もいる。子連れのひともいれば、ひとりでやってくる人もいる。様々な人たちが一堂に会する選挙。育ってきた背景も立場も異なる人々の、全体最適解が多数決という方式で決まることに、いつも釈然としない気持ちになる。

去年の参院選では、新興政党が議席数を伸ばした。私のフィルターバブル内では、排外主義を掲げる政党が躍進したことに、落胆する声が多いように見えたが、彼らの名前はコロナ禍でよく見かけるようになっていたので、特に驚きはなかった。出張先で入った山形の蕎麦屋では、彼らのポスターやチラシがお手洗いに貼られていたし、岩手では熱心な支持者たちがビラ配りに精を出していた。

その政党の候補者が駅前で「お母さんの愛が日本を支えるんです」と言っていたとき、おいおいマジで勘弁してくれよという気持ちになったが、それを涙ぐみながら聞いている壮年女性たち、熱心に候補者へ手をふる中年の女性たちを見ると、なんとも言えない気持ちになった。今回の選挙で、彼女たちはどうしているのだろうか。

その党が躍進できた背景には、政治への関心が薄かった浮動票を多く取り込んだことが挙げられているが、もっと根深いものがあるように思う。通っていた学校やショッピングモールの閉鎖、若年層の都市部への人口流出。自分が住んでいる地域の衰退を目にしながら、生活をするというのはむなしいものがある。

それを補うための労働力として”よそ者”がやってきたとしても、受け入れ、軋轢や摩擦を飲み込みながら暮らしていく大変さを負担するのは地元住民だ。すくなくとも東日本大震災後にわたしが住んでいた街では、指定避難区域の住民と、原発の出稼ぎ労働者が急速に増えたことで、地元住民の感情が悪化したことがあった。今の情勢は、あの時のことを思い起こさせる。

県庁に就職した友人は「地方こそ日本の抱える問題が急速に表出していて、とてもじゃないが現場では対応しきれない。そこにガス抜きをしてくれる政党がいれば、希望に見えることも否めない」と言っていた。頑張っているのに報われない現状、希望の見えない閉塞感、そこに自分の努力を承認してくれる存在が表れば、期待を膨らませて票を投じる人もいるだろう。

私自身は排外主義には断固NO、ましてや人権を侵害するような主義主張はあってはならない、女性をイコン化して「お母さんにしてください」なんてキモ過ぎると思っているが、そうした地方で暮らす人々が某政党へ票を投じたことに簡単に絶望したり、一笑に付すようなことはしたくない。理解できるとは思わないし、分かり合えるとも思わないが、自分の考えが都市部に住み、常に労働力が供給され、サービスも潤沢な立場の人間が言っていることと批判され得ることは、常に念頭に置いて然るべきだな、と今は思っている。

そして混迷を極める政治情勢において、唯一明るい気持ちで捉えられるとしたら、それはSNSが政治において重要な装置になってきていることだろう。良く捉えれば、有権者が草の根的に広がる政党に票を投じる流れになってきたということであり、政治を自分事としてとらえる機会や、効力感が広がってきたとも言えるのではないだろうか。今はプラットフォームをいかにマーケティングして、ハックするかが勝ち筋になっているが、いつか有権者が扇動されずに自分の意志として政治参加を行うとき、ほんのすこしは明るい情勢になってくるのではないかと思っている。楽観的すぎるか。