友人とTOHOシネマズ日本橋でパラサイト(原題:기생충)を観た。
ポン・ジュノ監督の作品を観るのは「吠える犬は噛まない」以来だったので、およそ20年ぶりになる。
鑑賞前にこれまでの彼の作品も併せて振り返ろうと思い、パラサイト以前の作品も見た。作品を重ねるにつれて、カメラワークや演出手法、観客のカタルシスの作り方などが洗練されていき、彼の映画に対する「好き」を超えた執着心というべき制作への想いや、それを後押しできるだけの土壌とここまで文化を育てる力量がある韓国の映画業界をあっぱれだな、と思った。彼の作品が国内外で適切に評価され、それが社会に影響を与えるのであれば、それはとても喜ばしいことだと思う。ちなみに今回も犬が出てきたので、またマンションから犬が放り投げられるのではないかと終始ハラハラしていたけれど、そんなことはなかったのでホッとした。
ところで、観終わって映画館を出て「良かった…」という友人に「パラサイトを良かったと思うならきっと他の韓国映画もハマれるものがあると思うよ」と言ったものの、じゃあ具体的にどれがオススメなのか伝えていなかったので、自分なりにまとめてみようと思う。
ちなみに一緒に映画をみた友人はグロい描写がダメなので、パラサイトに似た系譜のオールドボーイや親切なクムジャさん、哀しき獣、荊棘の秘密、息もできないなどの暴力的な表現があり、フィルムノワールに分類されるような作品はなるべくオススメからは外した。
血で血を洗うような描写は苦手だけど、もっと韓国映画を観てみたいという人には次の作品を勧めたい。友人は小津が好きなので、少しだけ彼女の好みも意識している。
1.オアシス
監督・脚本:イ・チャンドン
製作:ミョン・ゲナム
あらすじ:オアシス : 作品情報 - 映画.com
数ある韓国映画の中で、どの監督が好きかと聞かれたら真っ先に彼の名前を挙げる。彼が編み出す映画は繊細で心に残るものが多く、それでいてメロドラマ的なわざとらしさがない。こんな素晴らしい作品を作れる監督は、今のハリウッドにもいないのではないかと思う。
以前宮崎駿がチャップリンの映画を「映画館を出た後に一段見る世界が変わっている」と評したと記憶しているが、イ・チャンドン監督の映画にもそれと同じ魅力があると感じている。限りなく現実に近い苦しみと、しかし現実ではどうにもできない困難を物語の力によって軽々と飛び越え、観客の内面をも深く掘り下げていくような、そんな体験をさせてくれる。
テーマはいずれも重い作品がほとんどだが、彼の作品には激しい暴力表現はほぼ無いため、暴力的な表現が苦手な人でも安心して見てもらえると思う。ただしこの作品には性的な描写、詳細に言えば合意形成のないものが含まれているので、そうした表現を観られない方にはオススメしない。
それでもこの監督に興味を持った人は、まずはこの作品から鑑賞してみて欲しい。その上で、彼の作品と旅をする体験を気に入ったのであれば、ぜひ続けて「ポエトリー アグネスの詩」や製作側として関わった「私の少女」も見て欲しい。
2.それから
監督・脚本:ホン・サンス
あらすじ:それから : 作品情報 - 映画.com
ホン・サンス監督の手がける作品はダメな男とダメな女が特徴的で、いつも焦ったさと可笑しみを持って眺めている自分がいることに気がつく。日本の映画だと小津に例えられることが多いが、私は成瀬巳喜男が最も近いと思う。
また、監督の演出はとにかく丁寧で役者の演技に嘘を感じることがない。ポン・ジュノ監督が伏線の回収を得意としている監督だとすれば、ホン・サンス監督は心の機微を回収するのが得意な監督だと思う。
例えば近年の日本のドラマでよく見る光景として、俳優が過剰なオーバーリアクションをして見せたり、決して泣けないだろうという場面で心の文脈を無視してわんわん泣き始めるなどの演出が見られるが、これを観て白けた気持ちになったことはないだろうか。しかし、彼の手がけた映画ではそのように感じたことはない。役者の心の動きを中心に演出が組み立てられていくので、違和感を感じることなく、気がつくとあっと言う間に時間が過ぎている。
このことは、監督とタッグを組んだキム・ミニや加瀬亮のインタビューからも見て取れる。二人とも監督への信頼が厚く、現場では役者として尊重されているように見える。(このようなニュースにも見られるように、アメリカだけでなく日本、そして韓国映画界でも俳優の立場は依然として弱い。そのような中で役者と信頼関係を築けている監督は稀な存在ではないかと感じる。)
www.cinemacafe.net
eiga.com
ちなみに同監督の作品だと、私は「明日の朝は他人」と、加瀬亮が主演を演じた「自由ヶ丘で」も好きなので、ホン・サンスの映画がツボだった人にはそちらもオススメしたい。それまで「加瀬亮って良い演技するよな」と思っていたけれど、この映画を観て「この人ってこんな演技ができるのか」と印象に残った作品でもある。
期待するほど大きなどんでん返しも、予想のつかないジェットコースターのようなエンタメ性もないかもしれない。それでも、もしあなたが映画を観た後に、現実の世界が映画の世界と地続きになっているような、そんな気持ちを体験してくれたら嬉しいと思う。
3.国際市場で逢いましょう
監督・脚本:ユン・ジェギュン
あらすじ:国際市場で逢いましょう : 作品情報 - 映画.com
戦後韓国の激動の時代を一人の男性の壮大な生涯を通じて描ききった作品。あまり映画の感想で「泣ける」とは言いたく無いけれど、これは本当にただ終演後も気持ちの整理がつかずに泣くことしかできなかった。一人の人間の一生の儚さ。移り変わる常識の中で一人の人間が生きること。未だかつて家長として男性が背負う重圧と苦悩をここまで深く描ききった作品はあっただろうか。身近な作品に例えて言うなら、「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の周作側の物語なのだろうなと思う。そしてこの映画を観て改めて、家父長制度は本当に戦争と親和性が高いと感じた。
韓国映画を語るときに、儒教的価値観について考えることはよくあるが、真っ向から批判せずに、それが一般市民の中に醸成される過程を見ることができる映画は希少だと思う。また、近代韓国史とそれに関わっていた国々を知ることができ、韓国の近代史を知る上でも重要な作品だと感じている。
この映画は誰だって生き方を選べず懸命に過ごす中で、自分の人生に正解を見出すとしたら(そんなものは無いにしても)何だろうか、ということを考え続けているような人にお勧めしたい。私はラストシーンで男性がポツリと呟く一言に深く胸打たれ、今でも時折思い出しては「それ」を言ってもらいたい人は私にとって誰なのだろうか、ということを今でも考えている。
ちなみに主演のファン・ジョンミンにグッときた人はぜひ彼の出演する「新しき世界」も観て欲しい。韓国の映画界には時々怪物という言葉が似合うような役者が彗星のごとく現れるのだけど、彼は間違いなくその中の一人だと思う。
以上3つが私のおすすめの韓国映画。
上記に挙げたものだけでなく、沢山の作品の中からきっと「これだ!」というものが見つかるはずなので、友人には面白い作品を発掘する歓びをぜひ味わって欲しいと思う。
で、これにてああ素晴らしきかな韓国映画と締めくくりたいところなのだけど、今回のパラサイトでちょっとこれどうなんだろう、と思う部分があったので、それを自分なりに言語化してみたいと思う。
ーーーーーー以下ネタバレを含むのでご注意ください。ーーーーーー
今回見ていてしんどかったのは女たちの扱われ方だ。
例えば娘のダヘ。
家庭教師として雇われたギウが、問題が解けないダヘの手首をいきなり掴み、受験に合格するためのアドバイスとしてハッタリをかけ、その後ダヘは「先生」としてのギウに好意を持つ、という演出。これによって物語はダヘが「世間知らずなお嬢さん」という記号を観客に与えることに成功しているが、一方で彼女がギウに惹かれた内面は描かれず、それ以上の意味を持たされていない。
また、豪雨のあとにギウが、意を決して地下の家族を殺害しようとする「計画」の前に、裕福な家族たちのホームパーティーの団欒を眺めながらダヘに「僕はあそこに馴染んでいる?」と尋ねるシーン。ここでもダヘは彼の悲哀の演出に最適な女の子という立ち位置を崩さない。
このようにダヘは簡単に騙されて恋心まで持ち、それでいてギウの苦悩には共感できない年相応に浅はかな女の子として描かれており、さらに彼女はラストで大量出血をしたギウを背負って懸命に逃げている。
もしかするとこの演出は意図があったのかもしれない。しかし私は、ダヘが一貫して家父長制度内で求められる女、すなわち尊敬・愛・受容・包容・愛慕といった与える行為を無条件で与えることが義務付けられている「女」であると解釈することが限界だった。また、これはダヘだけでなく半地下の母娘にも共通して見られる描写だ。彼女たちは決して男たちに反旗を翻さず、徹底的に与え、そして奪われることに異を唱えず、場合によっては死んでいく。
何よりインディアン事件後のダヘとギウの関係についても、それが一切描かれていないことにも違和感を覚えた。たとえ彼女が富裕層だったとしても、その立ち位置は脆弱なもの(それは劇中での彼女の家庭内ヒエラルキーや、父を亡くした後の後ろ支えの無い富裕層一家を想像しても明確なように)であるにも関わらず、彼女の物語は語られずに終わる。
また、パク社長の妻であるヨンギョ。
ヨンギョのセックスシーン、あの意図がわからず頭を抱えてしまった。
例えば同じ韓国映画の「オアシス」では、肢体が不自由な女性と男性のセックスシーンがあるが、観客はそれを観ることで女性が愛情を表現したい切実さからその行為に及んでいることをメッセージとして受け取り、それが次の展開で重要なキーとなっていく。しかしパラサイトでのセックスシーンにそのような効果があったとは考えにくい。
それなのにあのシーンが必要だったのは何故なのか。
これは推測だが、以前監督が自身の映画について「観客と呼吸をシンクロさせたい」とインタビューで語っていたことから、テーブル下に潜む役者と観客の呼吸をセックスシーンをいれることによって、効果的な演出を図ったのではないか。
あるいは、キム・ギテクに対して屈辱心を与えるための場面として撮影した、ということも考えられるし、パク社長とヨンギョの関係性を投影するためのシーンなのかもしれない。しかし仮にそうであったとしても、ギテクの尊厳が削られる描写は別のシーンでも表現されているし、またヨンギョの家長夫制度における「女」としての立場は十分説明されているため、敢えてあのシーンを入れる必要は無かったと考える。
もし、このシーンが前者の意図での描写であったとするならば、すなわち制作側の安易な演出とフェティシズムを満たすためにあのシーンを導入したのであれば、本作が韓国国内において貧困世帯の生活に正のインパクトを与えたとしても、その側面だけを切り取ってこの映画を素晴らしい作品だと評価することはできない。わたしはセックスシーンは安易に扱われるべきではないし、それを導入したことで作品に相応の、何より俳優にとってメリットがあるべきだと考えている。
ちなみに、本作のセックスシーンについてを論じている人がいないか検索してみたものの、目につくのは「奥さんの時計回りが〜」といった感想や「ヤるなら娘派」といったコメントばかりでがっかりしてしまった。と同時に、やはりあのシーンは「覗き見」以上の効果を持っていないのでは無いかと感じた。
少し話は逸れるが、先日有罪となったハーヴェイ・ワインスタインは2015年に公開された「キャロル」などの未公開のセックスシーンを私的に保有していたことが報じられており、近年映画業界におけるセックスシーンの在り方は見直されている。
以前俳優のイ・ウンジュが望まないセックスシーンの撮影が引き金となって自殺したことを覚えている人は何人いるだろうか。また、キム・ギドクが映画「メビウス」の撮影中に無名の女優にセックスシーンを強要したことで、Me too運動を通じて告発され、裁判になったことは記憶に新しい。
日本でもいわゆる濡れ場を演じた俳優を「女優魂」や「本気の演技を観た」などと評価する場面を目にするが、そもそもなぜ女性の俳優が普段の演技ではなく、セックスシーンを演じることによって過大評価されるのか、またその対象が男性には向かないのかという部分も同時に考えるべきだろう。ちなみにセックスシーンの思想としてはアッシュ・メイフェア監督の誠実なインタビューがとても示唆的だと思った。
今回チョ・ヨジョンがこの演出を強いられたという話は聞かないが、とはいえ仕事の絡む現場での女性の立場の弱さを考えれば、ましてや監督と俳優という立場を考えれば、慎重にこの作品を評価する必要があると考える。
また、ポン・ジュノ監督についてはこのような批判も韓国メディアから挙がっている(現在は撤回されているが、セクハラ被害にあった女性が相手の名誉を庇うことは何も珍しいことでは無い)ため、今後も彼の作品は注視して見ていきたいと思う。
この他にもいくつか引っかかるところがあり、(貧困を三項対立で描いたことや、高齢者が出てこないことなど)全体的な評価として、近代韓国経済史と物語をうまく絡めて社会問題を炙り出した意欲作であると同時に、家父長制度と格差社会の中でもがく男たちにとって都合の良い設定の自己憐憫的な作品に留まっていると感じた。
また、パラサイトがアカデミー賞を受賞した時に「アジア初」といった言葉や「多様性が認められた」という評価を見かけたが、一方でBombshell、HustlersやThe third wifeが受賞しなかった側面を考えると、パラサイトが認められたのはハリウッドに「家父長制度の規範に大きなインパクトを与えない作品」だと認められたからでは無いかとも思える。
穿った見方だとは思うが、しかしこうしたニュースや、アメリカのミソジニー研究に関する本を読むと、あながち間違いではないのではないかと思わずにはいられない。
以上が私のパラサイト所感だが、これを読んで「やっぱり韓国は遅れている」とは思って欲しくないし、日本と韓国のどちらが優れているかという話でもない。また、格差社会や貧困に喘ぐ家庭や貧困線ギリギリ(平成27年時点で日本の貧困線は年収122万円)の手取りでなんとか生活できている家庭を無視して良いとも思わない。ただ、パラサイトが賞賛される一方で見過ごしている問題があるのではないか、と言うことだ。
ちなみに、Metoo運動だって「韓国は遅れているから告発が上がっている」のではなくて、日本は同調圧力が強くかつ俳優の立場が弱すぎるので結果として上がってこないだけで、セクハラパワハラなんてうんざりするほどある。
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韓国の映画界が表現の自由を手に入れたのは、等級保留制が廃止された2002年から。
そこからわずか10年足らずで映画文化がここまで花開いたことを素晴らしいと思うと同時に、どうか俳優たちの立場が保証されるような制度があって欲しいと願って止まない。それは日本でもそうだ。
ところで、今月の21日にカン・ヒョンチョル監督のスウィング・キッズが封切りになったらしい。今年もたくさんの良い映画と出会いたいし、お金と時間の許す限り劇場に足を運びたいと思う。 そのために今日も坂道を登ったり下ったりしながら、淡々と働いていこうと思う。