東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

異国の味、東京の味

こうも自粛期間が長引くと、流石に自炊の味にも飽きてきて困ってしまった。気晴らしにピークタイムを避けてどこかに孤食へ行こうにも、近場で通し営業をしていたお気に入りの店は軒並み営業時間を短縮してしまい、感染症対策がかえって密な時間を生み出してしまうという謎の現象が起こっている。かと言って外食のために足を伸ばすのも色々と気になってしまい、結局は家で代わり映えのない食事をしている。美味しいものを気兼ねなく味わえていた過去は、もしかしたら全て幻だったのではないか。もう自粛にはほとほと疲れている。
移動や誰かに会うことを制限せざるを得ない今、ふと恋しくなるのは南や東、あるいは西のアジアの料理だ。先日は蒸し鶏に大葉とちぎったバジルをのせ、チリソースをかけた名もなき料理を作って食べた。それらしい味で自分の欲望をごまかしたものの、あのお店で体験する冴え渡るようなハーブの鮮やかな香りや、魚介と肉の旨味が一体となって味覚の沼に沈むような多幸感には程遠く、かえって欲望の輪郭だけが濃くなったようだった。
東京に出て学生生活を送っていた頃、お金がないながらにも旨いものが食べたい私は、東南アジアの料理にあっという間に夢中になった。新宿三丁目のバンタイ、新宿西口の川香苑、新宿御苑のベトナミング、池袋のサイゴンレストラン、赤坂のチョンギワ、神田の味坊。どれもたくさん食べて飲んで5,000円もいかないのに、いつも新鮮な驚きと満足感があった。それでも同時は痛い出費だったのだが、その空間にいるときは気分は晴れていた。異国の言語が飛び交う店内に人々の陽気な笑い声は、都会で過ごす寂しさをいっとき紛らわしてくれるようだった。思えば卒業前に、恩師とゼミの仲間たちと打ち上げをしたのも新宿のバンタイだった。東南アジアでフィールドワークを行なっていた恩師が教えてくれた、ラープガイの余った汁に蒸した餅米を浸して食べるというやり方は、今でも忘れられない味として身体の奥に染み込んでいる。途中から子供を連れて参加した先輩が席につくなり、お店の人たちがかわるがわる面倒を見にきたのもいい思い出だ。
社会人になってからは南アジアや西アジアの料理を好むようになった。銀座一丁目のアーンドラ・ダイニング、虎ノ門のナンディニ、武蔵新田のボンディバワン、信濃町のバンダラランカ、江古田のシャマイム。家ではトルコ料理イスラエル料理を見様見真似で再現し、時にはミールスを作ることもあった。菜食というものがこんなにも多種多様な美味しさを表現できることを知ったのは、明らかにこの地域の料理との出会いが影響している。特にスリランカ料理が好きで、これから積極的に開拓しようと思っていた矢先に感染症が流行り出したのだった。
自由に移動できるようになったら行きたいお店ばかりが増えていく。東中野のロムアロイ、浜松町のビブロス、神保町の奥港美食、蒲田のスピローズ、阿佐ヶ谷のジャメージャム、錦糸町のアジアカレーハウス。特に西アジア中央アジアの料理が気になって仕方がない。東京に住むことの面白さは、多種多様な異国の味と出会えることだと思う。
就職をして運よく稼げるようになり、プライベートや仕事の折々で、寿司やフレンチ、懐石料理などを味わう機会に恵まれるようにもなった。しかし楽しみ方は、アジア料理を楽しんでいた頃とさほど変わらないように思う。名店と呼ばれる店で食べても腑に落ちなかったり、特に期待せずに足を運んだ店で驚くような美味しさに出会うことがあったり。かと思えば、腑に落ちなかった店を回を重ねて訪ねる毎に、その店が届けたい美味しさの輪郭を捉えられるようになったり。美味しさを味わい、何が好きで何がわからなかったのかを言語化して、気になる部分は調べてみる。
共通のジャンルに属する数多の店がひしめき合う都市でひとつの料理が提供される時、空間や演出、サービスというものも先鋭化されていく。東京の味のひとつは、この先鋭化された味の中からわずかな差異を見つけ出し、それを決定的な違いとして捉えて個人の趣向を照らしていくものだ。それに触れて心に明かりが灯る日もある。
けれど移動や行動が制限された中で、今私が出会いたい味はもうひとつの東京の味だ。多種多様な人種がひしめきあい、それぞれのコミュニティを形成する中で生み出される味。料理を構成する要素はどれも突出しているのに、なぜか混じり合うことで偶発的な調和が生み出される味。知る前と知った後の自分が違うように感じられる、美味しさの感じ方を解体してしまうような、人生における出会いの醍醐味を濃縮したような味。今はそんな味に出会いたい。自由に出歩くことができるようになったら、まずはそんな店に足を運びたい。
特別なサービスなどなく、時にはぶっきらぼうに接されることもある。大量に提供されたものが食べきれず、残すと理由を尋ねられたり、悲しそうにされることもあった。自分が相手やその文化に失礼なことをしてしまったと、反省しながら店を後にすることもあったし、十分すぎるくらいのもてなしを受けたり、その店の馴染みかのように接せられることもあった。どの経験も豊かなものとして血肉になっている。私にとっての東京の味とは、ハーブとスパイスとざっくばらんなサービスを全てひっくるめた味だと思う。
受け止めることに体力がいるニュースが続いて疲弊した気持ちになっている人や、美味しいものに出会えずフラストレーションが溜まっている人がもしこれを読んでいるなら、まずはぜひ彼らが作る料理を食べに行ってみてはどうだろう。そこで出会う数々の文化は、きっとあなたの好奇心を刺激して、ここではないどこかに連れていく。そこで振る舞われる料理、目にする文化といった体験を骨の髄まで楽しんだあと、心には水を湛えたような静かな充足感が広がっているに違いない。食べることは出会う歓びそのものなのだから。
そしてそれらの経験を通じて相手を知ろうとする人が増え、彼らや彼女たちに少しでも寄り添える人が増えれば、東京はより住みやすい都市になっていくのではないだろうか。東京という都市は誰かの味を尊重し、一緒に楽しむことができる場所であってほしい。そしていつか、まだ見ぬ味に出会うことができたら。そんなささやかな希望を抱きながら、私は今日も行きたいお店に思いを馳せている。