週末は帝国ホテルで
初秋の折、思いがけず帝国ホテルに泊まる機会を頂いた。帝国ホテルは2024年から建物の老朽化に伴って改装に着手すると聞いていたので、その前にぜひ宿泊してみたいと思っていたところだった。現在稼働している新本館の設計はホテル建築で名高い高橋貞太郎が手掛けたもの。旧前田侯爵邸洋館や、高島屋百貨店の設計者というとピンと来る方の方が多いだろうか。いい機会なので夫も誘って週末を帝国ホテルで過ごすことにした。
当日は日比谷駅からまっすぐホテルのエントランスへと向かう。ドアマンから「ご宿泊ですか」と声をかけられ、そのままスマートにフロントへと案内された。チェックインは夫に任せて、その間フロント前のソファに腰掛ける。フロント前にはソファとライト調の椅子があり、年配の方や妊婦などに優しい。
この日の装花はアストロメリアにスプレーマム、デンファレやトルコキキョウをふんだんにあしらったもの。ホワイトにグリーンの色合いが爽やかでいい。近くを通るとゆかしい香りが漂う。メインロビーではこの装花の前で絶えず入れ替わり立ち替わり写真を撮る人がいて、その賑やかさに楽しい心持ちになった。
そうこうしているうちにチェックインを済ませた夫と合流し、ベルボーイにそのまま部屋へと案内される。向かう途中私が建築や装飾に思わず足を止めても嫌な顔ひとつせず、むしろその歴史などを教えてくださってありがたかった。
今回宿泊する部屋は本館のスーペリアツイン。おそらくライトを意識したと思われる幾何学模様があしらわれた絨毯の上を歩いて向かう。
部屋のドアを開けると明るい光に照らされた清潔な室内が目に飛び込んできた。部屋は落ち着いた色味で統一されていて、どことなく安心感がある。スーツケースの痕がついた壁紙や、キャビネットの傷などは一切なく、誇張抜きに塵ひとつ落ちていないことに感嘆する。ベルボーイは部屋の説明を一通りしたあと静かに出ていった。
早速クローゼットに荷物をしまって、室内を散策することに。クローゼットには使い捨てのスリッパと、ランドリーサービスのセットが用意されていた。これがキアヌ・リーブスが言っていた帝国ホテルのランドリーサービスかとミーハー心がくすぐられる。
テレビボードの役割を兼ねているキャビネットの作りもいい。全体のデザインや引手の装飾に、どことなくオリエンタリズムを感じる。部屋全体は年季を感じる作りではあるものの、清潔感があり経年劣化は気にならない。むしろよくメンテナンスされていて好ましい。日比谷から有楽町にかけては粒ぞろいのホテルが立ち並ぶが、その激戦区で何を帝国らしさとして残していくのかを考え抜かれたスタイルだと感じた。
キャビネットの上にはタイガーのケトルと茶托に湯呑み。日本茶のティーバッグが2つ備えつけられている。ミネラルウォーターはスターバックスなどでよく見かけるFUJIのもの。コロナ対策で冷蔵庫内は空になっていて、他に飲み物が欲しい時は持ってきてもらえる仕組みだった。
寝巻きはポリコットンでさらりとした肌触り。上下セパレートのパジャマタイプでゆったりとした着心地。
キャビネットのガラス扉の中にはカップアンドソーサーにグラス各種。紅茶とコーヒーが2つずつ。
ティーカップは鳴海製陶。これがなかなか使いやすくてよかった。備え付けの紅茶はダージリンとセイロンをブレンドした帝国ホテルオリジナルの味。誰もが紅茶と聞いて想起する味の、その真ん中を射抜いてくるような美味しさ。読書のお供にぴったりだった。
キャビネットの隣にある机もメモ帳にレターセットなどがあり使い勝手がいい。隣のキャビネットにコンセントの差込口が2つ、LANポートが1つあるのでちょっとした仕事をするには困らない作りになっている。またWifiは2段回認証なのも、セキュアがきちんと担保されていて好ましい。
レターセットに含まれていた葉書には、旧本館の写真がプリントされていて趣があった。ここの葉書を誰かに送ったり、自宅に向けて出してもいい思い出になるだろう。
スイッチカバーもきれいに使われていて、アクセントとして効いている。そして傷ひとつない。こういうものを大切に使い、残しているところにセンスを感じる。
寝具は帝国ホテルオリジナルのスリープワークス。宿泊先の枕は合わないことが多いけれど、帝国ホテルのものは本当によく眠れた。シーツのサラサラとした肌触りもいい。
窓際にはひとりがけのソファが2脚、真ん中にテーブルが置かれている。カーテンはベッドサイドにあるタブレットを使用して自由に開閉ができる仕組みになっていた。閉まるスピードが早くモーター音も静かでいい。
よく見るとテーブルは八角形で、ここにも旧本館のエッセンスを感じる。
窓際の席の上部には氷山のようなライトが備えつけてあって、これがとてもよかった。ガラスを通過して屈曲した光がふんわりと降りてくるので、本を読むときのあかりにぴったりだった。本を読むときは、ここのソファ席が私のお気に入りになった。
部屋からの眺めは日比谷から有楽町をのぞむようになっていて、時折京浜東北線と山手線の車両が見える。電車好きは楽しめるかもしれない。
続いてバスルームの探索へ。部屋を圧迫しないようバスルームは角がない作りになっていて、実際の数字ほど狭さは感じない。出窓のような雰囲気で可愛い。
バスルームはこぢんまりとして清潔感のある作り。他のホテルのバスルームと比較すると色気はないけれど、徹底したバリアフリーに、シャワースペースには腰掛け用の椅子が常備してあるなど、誰にとっても使いやすいバスルームになっていた。ここなら年配の方などにも安心して宿泊券を贈れる。
それからお湯張りがスイッチを押して4分で完了するのも素晴らしい。入りたいと思った時にすぐ湯船に浸かれるのはありがたい。バスタブも頭をのせるのにちょうどいいカーブで、しかも肘おきまであり、これまで宿泊したホテルの中ではいちばん使い勝手がいい長湯のできるバスタブだった。
ちなみにシャワーはレインシャワーもついていて、なかなか気持ちがよかった。帝国のレインシャワーはTOTO製。お湯の量が豊富で勢いがあって、なおかつ水が細かいので肌へのあたりもいいという、とても満足度が高いもの。湯船に浸かっていなくても、このシャワーだけで充分身体が温まった。
ベイシンも落ち着いたクラシックな作りになっている。
特に印象的だったのが椅子にパイル地のカバーが被せられていたこと。衛生的だし、何より見た目がいい。こういうところの衛生管理を気にしてしまうところがあるけれど、そういう点でもまったくストレスを感じなかった。
ドライヤーはpanasonicのionity。色味やこぢんまりとした佇まいがこの造りのバスルームにあっていて、このセレクションは結構好きだなと思う。とはいえすでに生産を終了しているものでもあり、最新のハイエンドなドライヤーを使っている人は風量や仕上がりに物足りなさを感じるかもしれない。ロングヘアの私は乾かし終わるのに20分弱かかった。ドライヤーに一家言ある人は、自宅から持参した方がいいかもしれない。
アメニティは帝国ホテルオリジナル。私は手持ちのものを使ったので使用感がわからないけれど、夫曰く柑橘系の香りでさっぱりしていてよかったとのこと。インペリアルフロアではアメニティがアユーラにグレードアップされる。確か昔の帝国ホテルは一般向け客室のアメニティが資生堂で統一されていたはず。資生堂系列と付き合いがあるのだろう。
ちなみにスキンケアのアメニティは常備されておらず、必要なときは客室係にお願いするとミキモトコスメティックスのスキンケアが手渡されるらしい。他にもヘアアイロンなどの貸し出しなども行っているそう。必要なものは一通り揃っているので、手ぶらで泊まりに来ても困らなそうだ。
バスタオルはコットン製でふかふか。吸水力も申し分なく、気持ちよく使えた。
お風呂を満喫し、心おきなく読書をした後は晩ご飯を食べることに。ホテル内のレストランで行きたかった場所は感染症対策で軒並み休店しており、ルームサービスも人手が足りていないのか忙しない印象を受けたので外へ食べに行くことにした。そうか、感染症の影響を受けて従業員数も減らされているかもしれないんだなと思い、ここまでその印象を全く与えなかったサービスのよさに改めて驚く。
夫が肉を食べたい気持ちが捨てきれないというので、結局この日は焼肉を食べに行くことに。夫と焼肉なんてそれこそいつぶりだろう。外食の中でも人と会話をして楽しむような鍋や焼肉、ざっくばらんな居酒屋やビストロには足が遠のいていることを実感する。
お腹が満たされたあとは部屋に戻ってだらだら過ごす。この週末は仕事をしないと決めていたので思い切ってPCは家に置いてきた。トランクに詰めた本の中から岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を取り出して、窓際の椅子に座って読む。時折紅茶を飲みながら、部屋から見える日比谷から有楽町にかけての風景を眺めていると、頭が東京のネオンサイン群とパレスチナのオリーブやアーモンドの木々が生茂る景色を行き来するようだった。
そうこうしているうちに夜の21時を回ったので、夫に「閉館後の帝国ホテルを見学してみない」と誘って部屋の外を探検することに。エレベーターに乗って中2階へと降りる。
中2階でエレベーターを降りて真っ先に目に飛び込んで来るのがこのシャンデリアだ。彫刻家の多田美波が作成したもので、下から覗くと金色の薔薇のように見える。周囲の空間と調和しながらも豪奢さがあり、しみじみといい設計だ。
そのまま右手の方面に進むと1階のランデブーラウンジが見渡せる。壁面の「黎明」と呼ばれる作品はシャンデリアと同じく多田美波が作成したもの。あえて見た目も質感も異なるガラスブロックでできており、ダウンライトからの光が透過してラウンジに溶け込んでいる。遠くから見ると存在感のあるいい色合いだが、近づくと派手さはなく落ち着いて見える。
さらに廊下の先に進み、レセゾンの前を通過すると、全面ガラス窓の外廊下に出る。向かいに見える日劇の窓は切り絵のようにくっきりとした陰影が浮かび上がっていて夜の日比谷によく映えていた。ちなみに日劇を手掛けたのは村野藤吾。有楽町の読売会館とは対照的にクラシカルな外観で、引き出しの多い建築家であったことが伺える。いつか彼が手掛けた伊勢志摩観光ホテルにも宿泊してみたい。
そのまま奥に進むと喫煙所とクロークがあった。クローク自体は休業中。旧オークラのクロークにも似た静かな印象の作りがいい。
さらに進むと見えてきたのが、かの有名なオールドインペリアバー。ホテルバー好きとしては一度は行ってみたかったけれど、この日は感染症対策のため休業中だった。
バーで飲むのはまたの楽しみにしようと思い、入り口付近の旧帝国ホテル本館のデザインを模した造りと、当時の調度品のリプロダクトを目に焼き付ける。帝国ホテルに宿泊した歴代のスタアたちの写真が飾られていて、ホテルが歩んできた歴史を感じた。
さらに進むと「歩行者注意」と書かれたレトロなランプが灯っていることに気づく。なんだろうと首を傾げると扉が開く音がして、ルームサービスのワゴンが目の前を通過していった。なるほど、パントリーがここにあったとは。夜の廊下を真っ白なテーブルクロスが横切り、その傍らには一輪の薔薇が飾られていて幻想的だった。
パントリーを進んだ向かいにはタワー館があり、その間には庭園がある。簡素な造りながら枯山水を想起させる広がりもあり、雨の風情と相まって良い空間だった。
そのまま本館側の内廊下を進む。外側とは違ってシャンデリアがあり、ずっとクラシカルな雰囲気をたたえている。
ガラスを幾層も使ったシャンデリアは幾何学的できらきらと煌めいていた。
柱の装飾や明かりの取り方には旧本館へのオマージュが感じられて良い。高橋に旧本館を継承する意思があったことを感じる。
廊下の先には旧本館を想起させるステンドグラスがある。一見対照的でありながら実は非対称なデザイン、太さの異なるケイムをあしらった造り。まさにライトが得意としていたステンドグラスのデザインそのもの。
旧本館建て替えの際は反対運動があり、またフランク・ロイド・ライトという名匠が関わった規格外の建築ということもあって高橋貞太郎の評価は低く見積もられがちだが、旧本館を継承しつつ新しい時代に適合した建築を行おうとした手腕はもっと高く評価されても良いのではないだろうか。
ちなみに内廊下の隅には昨今では見かけなくなった非常電話機も備えてあった。こうしたものがまだ残っていること、使用されているフォントに建物の時代を感じる。そうしてひととおり中2階を散策した後は階段を降りて1階へ。
この手すり部分のデザインもいい…人気のないメインロビーはチェックインした時の喧騒とは打って変わって、静かで厳かな空気すら感じる。磨き上げられた大理石の床は写鏡のよう。
ファサード部分はどうしても旧本館の印象を超えることはできないが(日比谷の一等地にあの噴水を設けるだけで既に採算が取れなくなるだろうと思う)内部は負けず劣らず良いデザインだ。柱の一つ一つにアクセントがあり、それがリズミカルに並んで奥行きを出している。同時にひと目見て導線がわかりやすい。可用性とデザイン性のバランスが良いのは流石だ。
よくよく見ると、カウンターのあちこちに花が置かれていることに気がつく。ホテルマンに許可をもらって、気になった花々を写真に収めることにした。客がいなくなっても可憐に佇み続ける姿に心が慰められる。
メインロビーと色味が同じで統一感があったのもテーマ性が感じられてよかった。活け方も参考になる。
よく見るとインペリアルフロアのチェックインカウンター横にある衝立も、ライトのデザインを彷彿とさせる幾何学模様がプリントされていた。帝国ホテルの精神に結びついているデザインだということがよくわかる。
カウンター周りに設置されているソファはよく見ると寄木細工のような加工が施してあった。こうした細かいところをゆっくり見ることができるのは宿泊者の特権かもしれない。
メインロビーの階段裏には旧本館で使用されていたライトがデザインした家具が展示されている。六角形の背もたれが印象的なピーコックチェアは、自由学園明日館でみたものを彷彿とさせる。小ぶりで可愛らしいが、よく見るとここにも幾何学的なデザインが施されているのがわかる。ライトの建築だけでなく家具までデザインを手掛けて空間を調和させたいという、ともすれば偏執的なこだわりは当時の関係者にとっては大変なものだったろう。その当時の姿をやはり見てみたかった気もする。
エレベーターホール前には旧本館のデザインを元に再現したレリーフがあり、明治村でみた光景がよみがえった。大谷石の職人が手彫りで仕上げたらしく、その精緻さに目を凝らす。
人気のないメインロビーを名残惜しみながらもその場を後にして部屋へ。ホテル内を散策して疲れたのか、湯船に入った後はそのまますんなり眠りについた。
翌朝はホテル内にあるパークサイドダイナーでモーニングを取ることに。宿泊者はあらかじめ予約をすることができるのがうれしい。名前を告げてそのまま予約席へと案内される。外が見える席で気持ちがよかった。
この日は宝塚の出張公演があったらしく、時折タカラジェンヌらしき娘さんたちが目の前を横切っていった。夫はモーニングセット、私はかねてより食べてみたかったホットケーキをオーダー。
みてほしい、このつややかで一点の焼きムラも存在しないホットケーキを。ぴかぴかの表面はもはや発光しているとすら思う。清廉でうつくしい佇まいには、ナイフを入れることすら躊躇われる。
どうやって食べようかひとしきり悩んだあと、赤坂のfur-fullスタイルでいただくことに決めた。付属のホイップバターを一枚一枚丁寧に塗り込んで十字に切ったあと、上からメープルシロップをたらりとかける。そのあと一口ずつ切り分けて口の中へ運ぶ。バニラのいい香りとメープルシロップの甘さ、塩気の効いたホイップバターが一体となったホットケーキは完成された懐かしさがあった。
お腹が満たされた後はそのまま天気がいいので日比谷公園へ。早朝の公園をランニングする人、犬の散歩をする人などとすれ違う。朝日に噴水のしぶきが煌めいて心地よい。
ゆったり散歩を楽しんだ後は、また部屋に戻ってチェックアウトまでのんびりと過ごさせてもらった。
帝国ホテルに宿泊してみて、派手さはないが安心感のある、例えて言えば老舗旅館に宿泊したような満足感があったことに気づく。部屋に珍しいものが置いてあったり、高級なアメニティが揃っているわけではないのだけれど、祖父母の家でくつろいだような得難いやすらぎがあり、泊まってみないとその真価がわからないような体験だった。
華麗なホテルは綺羅星のごとくあるけれど、晩年を過ごしたいと思えるホテルは帝国ホテルだけかもしれない。弱った自分でも向かえる場所、そしてそんな自分を安心して預けられる場所と言ったら大げさだろうか。
感染症のことを考えて今回は利用することを控えたけれど、次回はプールとフィットネスルームも使ってみたいし、数寄屋建築フリークとしてはホテル内にある村野藤吾が設計した茶室も見学してみたい。帝国ホテルは使えば使うほどその良さがわかるようなホテルだという気がしている。
個人的に忘れ難いのはエレベーターに飾られている一輪の薔薇の花。あれを見るとやはり帝国ホテルに来た実感が湧き、ある種の憧憬になっている。夫が今度は一緒にレセゾンに行こうねと言うので、いつか祝い事があったら連れて行ってあげたい。