コロナ禍における「正しさ」を再考する 金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』
「正しさ」という言葉を聞くとき、いつも平均台が頭に思い浮かぶ。
皆、うまくバランスをとりながら渡っているのに、自分だけは黴臭い体育マットの上に何度も落ちてしまう。渡るためには暗黙の「正しさ」に従う必要があって、自分が不適合であることは、誰にも悟られてはならない。
金原ひとみはそうした平均台をうまく渡れない人間たちを、ずっと描いてきていた作家だ。
彼女が描きだす人々は社会が示す「正しさ」から逸脱し、過剰で脆い。そんな彼らの「正しくなさ」に触れていくうちに、自分の中にあった「正しさ」はいつしか瓦解されていく。
金原ひとみはいつも多数の「正しさ」が優先されやすい社会で、「正しくなさ」を烈火のごとく肯定してきた。徹底的に「正しくなくなる」ことでしか打ち破れない閉塞感。
しかしそんな作風も、母性神話の崩壊と母親が子供を愛せないことを肯定した『マザーズ』という作品以降、鳴りを潜めていった...そう思っていた。ところが『アンソーシャルディスタンス』を読んで、閉塞感を金属バットで殴っていくような、かつての金原ひとみが健在だったことを知った。
”Bad girls go everywhere. (悪い子はどこにでも行ける)”
金原ひとみは2021年になっても変わらず、そんな言葉がぴったり似合う書き手だ。
金原ひとみの『アンソーシャルディスタンス』は5つの短編で構成されている。
アルコールに依存しながらうつ病の恋人を支える女を描いた「ストロングゼロ」、プチ整形を繰り返す女を綴った「デバッガー」、誰かに求められることで自分の存在を確認する「コンスキエンティア」、コロナ禍の若い男女を写した「アンソーシャルディスタンス」、コロナを期に恋人と疎遠になっていく女を描いた「テクノブレイク」。
なかでも表題作である「アンソーシャルディスタンス」と「テクノブレイク」は、コロナ禍における恋人同士の物語を綴っている。前者は若い恋人たちが息苦しさから逃れるために鎌倉へ逃避行する話で、後者は感染を恐れるあまり恋人と生活ができなくなっていった女の話だ。コロナ禍で他者と交流することが「正しくないこと」にカテゴライズされていくなかで、前者は「正しくなさ」を、後者は「正しさ」を選択していく。例えばそれは作中で、次のように表現されている。
この人には生まれてこの方、好きな人に会いたくて仕方なくて馬鹿なことをした経験なんてないんだろうか。(中略)スウェットに着替えてベッドに横になると、Twitterをスクロールしていく。ライブハウスでクラスターが発生したことについてバッシングが巻き起こっているのを見て、苛立ちが募っていく。
(中略)無自覚な軽症者が感染拡大を招いているというのは理屈では分かる。でもじゃあ、ライブなしにどうやって生きていけというのだろう。
――Unsocial Distance (p.207)
それから程なくしてコロナが猛威をふるい、マスクを何箱も買い溜め狂気じみた怖がり方をするようになっていった私に対して、蓮二は戸惑いと呆れを隠さなかった。コロナをさほど気にしていない人の目には、私のような人間は正義の剣を振るい、誰彼構わず刺し殺す公害にしか映らないのだろう。コロナ情報を得るためTwitterを見ても、同じような危険厨である人の意見を読めば心が安らかになり、危険厨を揶揄するような意見を見つけると腹が立ち、そのリプライに私と同じ危険厨の批判を見つけては安心した。私はコロナに罹ってもいないのに、コロナに蹂躙されていると言っても過言ではなかった。
――Technobreak (p.245)
Twitterというツールを使って受け取る情報とその解釈が、それぞれの立場によって180度変わる対比が鮮やかだ。物語の中でそれぞれの「正しさ」は入れ替わったり、意味が変わったりする。そしてそれは次第に、見る側の「正しさ」に揺さぶりをかけていく。
二つの物語が示すように、コロナ禍における「正しさ」は、ひとりひとりにとって少しずつ重みづけが異なり、最も親しい他者とですら決して一枚岩にはなれない。そしてそのちいさな差異が、家族と自分、そして恋人と自分といった、それぞれの関係性にも影響を与えていく。それは時として福音にもなり、分断にもなる。
自分を苦しめるもの、自分の好きな人を苦しめるものの絶滅を強く願う。テロとか殺人事件を犯すことは想像もできないけれど、コロナが蔓延し始めた世界の中で、こんなにも幸福な想像ができることに初めて喜びを感じた。こんな幸福な世界は、コロナがなければ想像もできなかっただろう。
――Unsocial Distance (p.231)
「(中略)魂を愛するみたいなことが本来の恋愛だって言うの?」
「そんなこと言わないよ。でも芽衣から俺を思いやる気持ちとか、尊重してくれてると感じたことは一度もない。芽衣は自分に近いから俺を認めていて、コロナ問題が勃発して自分に近くなくなったから俺を批判するようになった。コロナに関する意見の食い違いは、その芽衣の自己中心的な資質を浮き彫りにした。それに、自分に近い大人しい人間を好きになったのは、自分からかけ離れた存在だった元彼にうんざりしていた反動もあったんじゃない?」
――Technobreak (p.278)
読者はこのふたつの物語を通じて、コロナ禍が人間関係に与えたインパクトとはなんだったのかを知る。「アンソーシャルディスタンス」のふたりのように、互いをいたわり大切に思うことができた人たちもいれば、「テクノブレイク」のふたりのように、互いの差異に耐えられず関係が破綻してしまった人たちもいた。ゆるやかな分断ーーそれらは果たしてコロナが原因だったのだろうか。結局のところそれは、コロナ自体が原因なのではなく、以前から無視してきたことが積み重なった結果もたらされたものだったーー私はそう感じた。
人は不確実性に弱い生き物だ。だからこそ正しいものにすがりたくなり、常に何かと線引きすることで、自分の正しさを確かめずにはいられない。ありもしない「みんながそうだから」という妄想を信じ、自分もその「みんな」に属している錯覚は、ぬるい安心感につながっていく。けれどそれは幻想だ。そしてそれを幻想だと知って初めて、人は本当の意味で他者と出会うことができる。
コロナの流行と共に、私生活にも「正しさ」という意識が流れこみ、それまでの暮らしや人間関係は「正しいか/正しくないか」で二分されていった。けれど本来は正しい行為も、正しい人も存在しない。その意味づけは、時代や属する集団によって変わる。人間は常に正しさと正しくなさを揺れ動き、時には越境する有機体だ。
すでに社会はアフター・コロナへとギアを加速し始め、もはやコロナ禍は乗り越えられたかのように思える。しかし、元への生活へと急速に戻っていこうとする今だからこそ、いったん立ち止まってコロナ禍における「正しさ」について再考したい。コロナは今日に至るまで、「正しくない」他者を容認できない、そんな社会の脆弱性を露呈させた。果たしてここから私たちは、どこまで「正しくなさ」に寛容になれるのだろうか。
金原ひとみの『アンソーシャルディスタンス』は、多数の「正しさ」が蔓延する社会において、平均台から落ちてしまう人たちに目を向けさせ、その痛みや苦しみについて語りかけてくる。その痛みや苦しみについて向き合うことも、アフター・コロナにおける必要な作業なのだろう。