東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

映えない身体を受けいれる難しさ モナ・アワド『ファットガールをめぐる13の物語』

 2020年にInstagramの仕様が変更され、フィードには様々なpostがサジェストされるようになった。ファッション関係のアカウントを立て続けにフォローすると、画面にはほっそりとした女たちが”also you like this...”と言わんばかりにズラーっとサジェストされる。ひたすらに”Not interested”ボタンを押しまくっても、何かの拍子にまたサジェストされ、もはやもぐら叩きだ。その時はっきりと「あ、これは結構しんどいな」と感じた。

 もういい大人なので、世の中には様々な見た目の女がいることを知っている。加齢とともに自分の見た目も内面も、チャーミングさとして受け入れられるようになってきた。にもかかわらず、夜中に均一な女体のサジェストを浴びていると、画面を見ながら「この身体が世間のスタンダードなのではないだろうか。私はもっと痩せなくてはならないのではないか」という、はるか昔に決別したはずの感情が、ざらりと立ち上がってくる気配を感じる。自分の身体は自分のものであるはずなのに、油断すると他者の目線が入ってきそうな居心地の悪さ。この感覚はいったいなんなのだろう。

 モナ・アワド『ファットガールをめぐる13の物語』は、自分の容姿に自信がない女の子が、努力して理想のボディ・イメージに近づこうともがき、思い描く幸せを手に入れようとする物語だ。物語の主人公であるエリザベスはXXLサイズの女の子。母子家庭に育ち、アパートメントで二人暮らしをしている。インディーズバンドやマイナーな映画を好み、ハイカロリーな食べ物を愛する彼女は、自分の身体に劣等感を持っている。

 容姿というものは他者と最初に出会う「自分」だ。エリザベスは自分の身体を通して、他者の視線や憧れのボディ・イメージを内面化し、徹底的に「わたしは美しくない」と刷り込んでいく。そしてその劣等感をダイエットに励むことで補おうとする。それと同時に彼女は、自分の身体にあるもう一つの身体的価値を試していく。それは性的な魅力を備えた女体としての価値だ。

まるで映画の中の女の子になった気分。タクシーが停まる瞬間までは。ホテルに着くと、料金を払うためにエントランスまで出てきたあいつが手を振っていて、それを見ると本当の自分が戻ってくる。今日もいい感じだねえーー上の階に向かうエレベーターの中で、誰もいなければそう言ってくるはずだ。いい感じは、きれいだよ、にはならない。この人も他のどんな人も、きれいだよ、とはわたしには言わない。

 自分の身体に劣等感を持つことと、性的価値があることを確認する行為は両立する。なぜなら自分の身体を他者の評価に委ねずには価値を実感できないからだ。女体としての一時的な需要はあるにもかかわらず、一番欲しい「きれいだよ」という言葉を言われないことで、エリザベスの劣等感はより強固なものになっていく。

 結局、物語の回を追うごとにエリザベスの体は細く、そして薄くなっていくが、それでも彼女は痩せようとすることをやめない。食べ物はオレオの入ったマックフルーリーからアーモンドとしなびたサラダへ、着ている服は「何かを覆い隠したい人たちの服」から、タイトなカクテルドレスへ。頭の中にはチョコレートファッジや砂糖まみれのケーキがあるのに、手にとって食べるのは金柑のような果物と鳥の餌のようなナッツだけ。それでも理想には遠い。試着室で着たいワンピースのチャックが閉まらなかった時の惨めさが、友人と一緒に撮ったときの写真写りの悪さが、ダイナーでポテトを食べている時の彼の気まずそうな視線が、彼女にもっと痩せろと急き立てる。

「これ着てみていいですか?」と彼女にたずねた。
目がわずかに見開かれる。油の膜のようにかすかに、まさかという表情がちらついていた。
「どれですか?フォン・ステファンバーグ?」
「はい」
フォン・ステファンバーグからわたしへと視線を移し、またフォン・ステファンバーグに戻す。そうやって彼女はサイズを見比べていた。これとあなた?これとあなたは、絶対ないわ。

 求めていた身体に近づいていけばいくほど、理想の身体はますます遠のいていく皮肉。それでも痩せることはやめられない。さらに物語では、貧富の差におけるボディ・イメージについてもほのめかされている。主人公のエリザベスが住む地域はロウアーミドルに位置する。仲のいい友人はお世辞にも痩せているとは言えない身体だ。そしてエリザベスの母親は、肥満体で糖尿病でもある。住んでいる地域は決して裕福ではない彼女が、自分の出自は貧しい階層ではなく、適切な自己管理ができる人間であることを他者へ知ってもらおうとするとき、一体どのような身体になろうとするのだろうか。

 エリザベスのひりつくような理想の身体への渇望を追体験していると、「ありのままの自分を愛せばいいのに」という言葉が、当事者にとっていかに空虚なものかを思い知らされる。ファッションビルのポスター、youtubeのCM、Instagramのサジェスト、雑誌のモデル、テレビに映るアイドルグループ。これらを見ていると、この社会においては痩せなくていいと思える努力よりも、痩せる努力の方が簡単なのではないかとすら思う。ふとした時に自分の中に入ってこようとする「痩せろ」というメッセージ、痩せたら幸せになれるかもしれないという甘いささやき。余程訓練されていない限り、これらをシャットアウトすることは難しい。

 2020年以降、Instagramを通して眺める世界はボディ・イメージに対して寛容になったように見える。フィードに流れる女たちはほとんど加工をしていない(あるいは露出補正で明度を落としたり、カメラの位置を低くして撮影するなど、加工技術が洗練されてきていると言ってもいい)し、これまで不揃いとされていた顔の色や造形も、「おしゃれ」として認知されてきているのを感じる。しかし、顔の造形については多様になったところで、彼女たちがみな痩せているという事実については変わっていない。むしろファッションは2022年SSのmiumiuを筆頭に、ヘルシーに痩せている人が着こなせる服がトレンドだ。*1また、格差が広がる中で「痩せている」という意味合いも、変化してきている。*2 

 この本の良いところは、ルッキズム*3というテーマに「ありのままの自分を受け入れてハッピー」という安易な答えを出さないことと、ジェンダーとボディ・イメージ、周囲の認知とギャップ、そして経済格差という生々しい視点から、問題の根幹を描いてみせたことにある。主人公だけでなく、彼女と出会う男たちや女たち。これらの視点を取り込むことで、作者はルッキズムという問題を、単なる「痩せ信仰に囚われた女の愚かさ」に帰結させずに描くことに成功していると感じた。

 結局、エリザベスは細くなってハッピーになることはできたのかと言われれば、答えはノーだ。では彼女は太っていた方がよかったのかと聞かれれば、それもノーだろう。では彼女がありのままの自分を受け入れられるようになったら万事解決だろうか。それもノーだ。なぜなら彼女自身が変わっても、彼女を規定しようとする人々が変わらなければ、他者の目線から決して解放されることがないからだ。痩せようとすることも、ありのままの自分を受け入れることも、他者の目線からの解放を望むという点では同じにすぎない。

 社会活動をするなかで、自分という容姿を介さずにコミュニケーションをとることができない以上、この居心地の悪さがゼロになることはないだろう。では、せめてこの居心地の悪さと折り合いをつけるためにはどうすればいいのだろう。きっとそのヒントはこの本の中にある。この本ではエリザベスが自分を全て肯定して幸せになることもなければ、痩せて幸せになることもない。それこそが現代を生きる身体にとっての生きやすさのヒントになってくれるはずだ。

 痩せようと思うこと、素敵な容姿の人間に惹かれること。それ自体は罪ではないし、絶対悪でもない。けれどそれに過剰に慣れてしまって、自分自身に向けるまなざしが厳しくつらいものになってしまうのなら、そして他者の身体性に無粋な視線を投げかけるようになったならーーそこからは明確に距離をおくべきだ。ふと立ち止まって自分がなぜ痩せたいのか、そしてそんな人たちに惹かれるのかを考えるとき、きっとこの本はその思考の一助になると感じている。

 

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*1:余談だが、女性が腹筋を割れた状態にするためには、体脂肪率を平均15~13%以下まで減らす必要がある。一方で、正常な月経周期の維持には、体脂肪率が平均22%程度必要だ。

*2:一部の研究では、労働者が肥満である場合、賃金は下がる傾向にあることが指摘されている。田中賢久(2010)『身長と体重が賃金に及ぼす影響』、慶應義塾大学パネルデータ解析・統計センターより https://www.pdrc.keio.ac.jp/publications/dp/1035/

*3:ここで言うルッキズムの定義とは西洋の美的価値観に基づいて、マジョリティの男性が認める肉体を持つものを優位な立場におき、それ以外の身体を劣等として差別することだと考える。