11月、東京のとあるデパートにて
春から夏にかけての澄んだ空気はこころが踊るのに、秋から冬にかけての冷えた空気は妙にもの悲しく感じるのはなぜだろう。ときどきどこからか風に乗って金木犀の香りが運ばれてくる。今年もこのあまったるい薫りに、顔をしかめる季節がやってきたのだ。すっかり東京はアフターコロナの様相で、マスクをつけずに歩いている人たちや、訪日外国人を見かけるようになってきた。
ひさしぶりにデパートのコスメフロアにいくと、一部のタッチアップが解禁されていた。せっかくなので、ずっと気になっていたアイシャドウを試すことにする。席に案内されてケープをかけられ、この感覚もいつぶりだろうと感慨深く思った。
担当についたのは20代くらいの青年だった。マスク越しでもはっきりとした鼻梁の形がわかる。刈り上げられたうなじは清潔感があってぴかぴかしていた。
「今日はアイシャドウをお探しなんですか」
「はい、ずっと欲しかったんですけど、コロナでタッチアップができなくて。実際に肌に乗せたものを見て決めたいので、お願いしてもいいですか」
「もちろんです。まずはメイクをオフするところから始めていきますね」
そうして彼は微笑みながら、わたしにリムーバーを染み込ませたコットンを手渡した。以前はメイクオフからスキンケアまで美容部員にお任せだったのが、今は自分で行うことになっていたのだった。
「ああ、そうか。今はお客さんと美容部員さんでタッチアップを分担するんですね」
「はい、館やブランドの方針にもよりますが、わたしたちはご協力いただいています」
聞けば直接肌に触れること、また口元への化粧は感染のリスクが高いとされ、いまだに禁止されているらしい。まぶたにやさしく触れるブラシの感触を感じながら、彼の話に耳を傾ける。
「そもそも私が入社したのが、コロナ全盛期だったんです。そのときは部分的なタッチアップすらできなくて。でもやっぱりメイク品って実際に色味をつけないと、良さがわからないじゃないですか」
「確かに。手元で見るときと、実際につけてみるとだいぶ印象が違いますよね」
「そうなんです。なので当時はとても歯痒くて。まだリップメイクはできませんが、こうして少しずつお客様に試していただけるようになったのがうれしいです。ちなみに口紅へのメイクは禁止されていますが、お客様が苦しければマスクは外していいルールになっているんですよ」
不思議なルールですよね、と言って笑う彼を見て、私もマスク越しに表情が伝わるようにっこり笑ってみせる。
「そうなると、この2、3年間の売り上げも厳しかったんじゃないですか」
「そうですね。ただメイク品が売れない分、スキンケアやフレグランスが前年比の倍で売れるようになりました。この数年はいかに心地よくなれるか、ということがテーマだったように感じています。うちの館に入っているフレグランス部門も売り場を拡張しましたし、実際にそのブランドさんはボーナスもすごかったと聞いています」
確かに以前銀座シックスに行った時、フレグランスショップに長蛇の列ができていて驚いたことがある。アクアディパルマ、ルラボ、フエギア。以前はニッチな層が知るフレグランスだったのが、コロナ以降は香水に興味のないひとにまで認知されるようになっていた。
「あとはタッチアップができますよとお声がけしても、断られることが多くなりました。この数年で肌に触れられることへのハードルが高くなったことを感じています」
「そうなんですね、それは意外です」
「なので本当にお客様が購入されたあとも、こころから満足されているのか、それは気にしていますね」
たった数年のことなのに、購買行動が変容していることに今更ながらおどろく。
「少しずつお客さんの足も戻ってきているし、海外からの観光客も増えてきましたし、コロナ以前の仕事ができるようになっていくといいですね」
「本当にそうですね!触れることで気がつけることってたくさんあるので、その日が待ち遠しいです」
気づけば私のまぶたには、きれいにメイクが施されていた。シルクサテンのようにしっとりとしたツヤ。光を受けて細やかなパールがチラチラときらめく。澄んだベージュはマスク生活を経てナチュラルになった、今のメイクとハマっていた。
「かわいい!これ、いただいていきます」
鏡で見る表情は、いつもよりイキイキとしているように見えた。色や塗り方を変えただけで、いつもと違う表情になるのが楽しい。鏡に映る自分を見て、やっぱり私はメイクが好きだと思った。なにより、こうして誰かとメイクについての話をして、肌に触れてもらう時間がわたしの大切な癒しだったのだと。
お店を後にする前、彼にお礼をいってから「また来ます。応援してますね」と告げた。未曾有の感染症の中でこの業界に入り、現場で試行錯誤しながらプロフェッショナルを目指そうとする彼に影響されたのか、自然と足取りが軽くなる。仕事でくさくさすることがあっても、やはり元気をもらうのは、こうした人の仕事ぶりからなのだ。自分も頑張ろうと背筋を伸ばした。