東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

意思のある女について

最近仕事終わりにグータンヌーボをだらだらと見ることにハマっている。元々は自粛が続いて友人たちとの雑談に飢えていたのをごまかすために見ていたのに、今や回を増すごとに魅力的になっていく長谷川京子が気になるようになった。
昔は長谷川京子ってこんなに自分に忠実な感じの人じゃなかったよなぁと思いつつも、最近の彼女は結構好きだなと思う。ゴージャスに生きることに貪欲そうで、自分がどう見られたいかという欲望を理解していそうなところ。格好をつけることに恥じらいがなく、清々しささえ感じるところ。それでいてきちんとお仕事は回していて「あぁとてもいい大人だな」と、思うようになった。長谷川京子の清々しいセクシーさとゴージャスさをマイナスイオンのように浴びていると、なんとなく元気になるから不思議だ。
自分の欲望を知っていそうな女が一貫して好きだなと思う。自分が何をしたいのか、どういう人間でありたいのか、そのためにはどんなステップを踏むべきなのか。できるようにするためにはどうすればいいのか。やりたくないことはなんなのか。そうしたトライアンドエラーを繰り返しつつ、自分の人生を送ろうとしている女。
早速彼女のインスタグラムをフォローして、たまにyoutubeを見たりすること早数ヶ月。Instagramに載せている彼女のパーソナルな生活の一部は、メディアに出ているときよりずっとニュートラルで肩の力が抜けていた。何より彼女が純粋にお洒落が好きで楽しんでいる様子が伝わってくるのがいい。ビッグメゾンのバッグを持ってもきちんとスタイルになっていて、本人も服もバッグに負けていないことに気迫すら感じる。
youtubeでは積極的にジェンダーにまつわる話をしようとしていているのもいい。特にキム・ジヨンを読んで/観て、彼女が感じたことを語る回はとても良かったのでみんな見て欲しい。世代が違う周囲の女たちと仕事や恋愛のこと、産前産後や子育ての話をすること、それらをyoutubeで公開すること。まさに「私たちの話」をしていこうとしているこの姿勢!

youtu.be

あの本の良いところ*1は、どの階層の女も感じる性暴力や、妊娠・出産・仕事の話と、それにまつわる不平等を描き出しているところで、それが正しく伝わっているのだなと言うこと、そして彼女たちがそれを受けて「自分たちの物語を語ろう」とすることにジーンとした。これも事務所とのメディア戦略の一つなのかもしれないけれど、それを差し引いて見てもずっといい。ますます彼女を好きになってしまった。
今ではグータンヌーボでゴージャスな衣装をキメてくる長谷川京子に「なんですかそれ〜!」と茶々を入れる田中みな実を見ていると、心の中のリトル京子が「いいのよ!」と言うくらいには染まってきている。大胆にスリットが入った衣装や、タイトで身体のラインがわかるボディスーツを着て登場する長谷川京子を笑っていい人なんてどこにもいない。むしろそうやってボーイズクラブにおける女の子の正解をやってしまうみな実に「早くこっちにおいでよ」と思う。
ゴージャスに生きよう。自分の欲望に忠実に、自分のwantに素直に生きよう。それが自分だけでなく誰かのこともより快適に生きやすくするかもしれないから。わきまえたって何もいいことなんてない。身の程や分相応なんて知る必要がないし、こちらから合わせにいけばいい。あるいは向こうが合わせるべきのことだって往々にしてあるのだから。誰かに自分の身の程を決められることほど馬鹿馬鹿しいことはない。そうして最高な自分に対してのプライドを持った人間こそが、令和を変えていけるのかもしれない。
最近ジェンダーの議論が活発化することを嬉しく思うと同時に、一部の層がこれらを「トレンド」として考えている風潮にがっかりしていた時期だったので余計にそんなことを感じた。一見すると女に優しそうでありながら、ヘルスケアのリテラシーが無い女に買わせるための、高くて頓珍漢なフェムテックプロダクトを売りさばくようなプライドではなく、社会においてジェンダーにまつわる格差をなくすためには何から始めたらいいのかを誠実に考え抜き行動を続けていくプライドを、あなたも私も身につけられたらいい。そうした行動は往々にしてバズりもせず目立たないが、その灯火があることに希望はある。そして、すべての女たちがゴージャスに生きていくことができる、そんな日が来ることを願っている。 

*1:ただし、取り上げられている問題がwhite feminismの領域を出ていない側面は否定できない