東京で暮らす女のとりとめのない日記

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地域とゆるやかに繋がるうるおいの場 ヤオコー川越美術館(設計:伊東豊雄)

埼玉県といえばスーパーのヤオコーが有名だが、その私設美術館が川越にあることはご存知だろうか。設計は仙台メディアテーク座・高円寺などを手掛けた伊藤豊夫氏。館内にはヤオコーと縁が深い三栖右嗣の作品が展示されている。周辺の住宅地と背丈を合わせたような控えめな造形に、豆腐のような外観が印象的だ。

建物の周りには水辺があり、さらにそれらを囲むように遊歩道が巡らされている。ちいさなランドスケープながら、美術館を利用しない人にも開けており、写真を撮っているときには、犬の散歩に来た人や、買い物帰りと思しき人などが通り過ぎていった。

建物をぐるりと囲むようにして作られた水辺にはメダカたちが泳いでいた。もともと放流されていたのか、それともあとから居ついたのだろうか。人に慣れているのか、近づいてもまったく逃げる気配がない。

美術館は四角いお弁当箱を4つの空間に仕切ったような構成になっていて、入り口から入って右側に受付と売店、左側にはラウンジ、その奥に展示室1と2が設けられている。展示室に入るには入館料が必要だが、受付・売店は料金を支払わずに立ち寄ることができる。ラウンジには三栖右嗣の『爛漫』という作品が常時展示されていて、一息つきながら美しい絵を眺めることが可能だ。

この日はラウンジで無料のミニコンサートが行われる日らしく、会場がコンサート仕様にアレンジされていた。通常はテーブルが置かれていて、ここでコーヒーやヤオコー名物のおはぎをいただくことができるそうだ。

コンサートまではまだ時間があったので、作品を近くで観賞させてもらう。息もできなくなるような桜の密度に圧倒されていると、画面の左端に気になるモティーフを見つけた。近づいて目を凝らすと、思わず微笑んだ。カワセミだ。

本物よりも本物らしい筆致に驚かされたのは勿論、小さきものへの優しい眼差しが感じられ、作者本人の心のあたたかさに触れたように感じた。

展示室1には有機的な柱が鍾乳石のごとく、天井から下へ垂れ下がるようにして生えている。下に照明を備えることで、柱に光が反射して周囲へと広がっていくのが印象的だ。

逆に展示室2は天井が展示室1の柱をくりぬいたような形で抜けており、自然光がやわらかく降り注いでいた。

驚くべきはこの宙吊りになった丸いプレート状のもの。単に絵画を照らすスポットライトのための機能かと思いきや、このプレート自体を上下させることができ、それによって会場の光を調整できるというのだ。

館内に設計図があったので断って撮らせてもらった。まさに展示室1と2は対のようになっていて、ヤオコー川越美術館のロゴとも一致する。シンプルな構成はメンテナンスの負担が軽く、考え抜かれていて合理的だ。

ヤオコー美術館には建築が目的で来たものの、実際に中を見るとその展示もすばらしく、結局1時間近くいてしまった。ここを訪れるまで三栖右嗣の作品を見たことがなかったのだが、どれも生きとし生けるもの、とりわけ老いゆくものへの友愛にあふれており、涙を流すこともあった。

数ある作品のなかで、最も私の印象に残ったのがこの『光る海』という作品だ。恐らくは沖縄の海を描いているその作品は、その前に立つと波のきらめきやさざめく音までもが聴こえてくるようだった。目の前の崖に供えられた花々や果物は、弔いのための供物だろうか。人生を謳歌できることの歓び、人間という存在の途方もなさ。そうした言葉にならない気持ちがこの絵を見ていると感じられ、海の向こうへと連れて行かれるような気がする。

すっかり満足して美術館を後にしようとすると、入り口近くにヤオコーが始まった当時の模型が展示されていることに気がついた。前身である八百幸商店は、スーパーマーケットの業態をいち早く取り入れたあとにチェーン展開を始め、現在のヤオコーへと成長を遂げていったそうだ。

ヤオコーの経営理念は「生活者の日常の消費生活をより豊かにすることによって地域文化の向上・発展に寄与する」こと。コロナに伴う不況、そしてインフレーションによる家計の逼迫。消費者の生活は依然として厳しい。それでも無償のコンサートに集う人々を見て、生活の楽しみが少しずつ削られていくなかでも、芸術を求める気持ちが枯れるわけではないのだということを感じた。

企業として物を売ることだけでなく、それを通じてこころの豊かさを提供すること。文化や芸術に触れる機会を、社会貢献活動の一環として提供していく意義。今日もスーパーのヤオコーは地域の生活にうるおいを与え続けている。

Informantion

建物名:ヤオコー川越美術館

住所:埼玉県川越市氷川町109-1

 

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