東京で暮らす女のとりとめのない日記

暮らしとカルチャー、ミクスチャー

旅情あふれる街、湯河原で大人の夏休みを満喫した初夏の記録 伊藤屋 宿泊記《後編》

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宿をチェックアウトしたあとは、となりにある小梅堂へ。お茶菓子のきび餅がとても美味しかったので、自宅用に買っていくことにした。写真を撮っていると、伊藤屋から出てきた宿泊客が、次から次へと小梅堂へ吸い込まれていく。みんな同じことを思うんだなと可笑しくなった。

しかしこの店構えよ!あまりにも良すぎる。もし可能ならじっくりと見学してみたい…

さらに中に入ると見事な造りで、口をぽかんと開けてしまった。お店のひとに声をかけられて我にかえり、きび餅とばら売りされていたかるかんを1つだけいただく。なぜ湯河原でかるかんなのか尋ねると、創業当初にここで働いていた職人さんが薩摩出身だったからとのことだった。

さて、車に荷物を置いた後は、宿でもらったまち歩きマップを片手に湯河原町の散策へ。

街の中心に川が流れているので、どこを通っても水の音が聞こえるのがいい。温泉街というと、バブル期に増築した大きな建物が、その後の不景気に耐えきれず老朽化しているイメージだったけれど、湯河原はそうしたものは少ないのが印象的だった。旅館が隣接していてそれぞれの土地が狭いせいだろうか。あるいは街が景観の保存に積極的だったのだろうか。

そのまま藤木橋を渡って湯本通りをぶらぶらと歩く。

この石畳の良さ!通りには大正期の建築が点在していて風情がある。確か小田原は1945年の7月から8月にかけて空襲があったはず。その戦火を逃れてこんなに建物が残っていたとは。通りは静かな小径で、車一台が通るのがやっと。遠くでは季節外れのウグイスの声が聞こえた。

そしてこのあたり一帯を歩いていて驚いたのが、温泉やぐらがあちこちに点在していること!そりゃ源泉掛け流しの宿も多いわけだと納得。

通りの突き当たりには、かの有名な上野屋があった。伊藤屋とおなじくこちらも登録有形文化財の宿で、水戸光圀公が湯治に訪れた歴史がある。湯河原と言えば上野屋、伊藤屋、そして藤田屋が歴史を感じられる3大旅館のイメージ。夫が「いつか泊まってみたいな」と言うので、頭の中にある<いつか夫を連れていく場所リスト>にインプットした。

そのまま小梅橋を渡り、もと来た道を戻っていると、気になる路地が見えてきた。

どうやらこの上には亀屋旅館という温泉宿があるらしい。展望がのぞめるかもしれないないので、奥へとすすんでみることに。

 

 

通りに入ると、狭くて急な坂道が見えてきた。どことなく尾道を思い出す。

到着した亀屋旅館はどうやら休業中のようす。温泉スタンドの営業もされていたようで、いったいどんな人が買いに来たのだろうと想像する。

そのまま奥に進むと、視界がひらけて湯河原の街が一望できる場所があらわれた。もはや全身汗だく。けれど心持ちは爽やかだ。こうしてみると、湯河原は谷あいにできた温泉街なのだなということがよくわかる。

いい景色も見れたので、そのまま来た道を戻る。この傾斜よ!途中、かわいい猫がいたのだが、声をかけるとサッと逃げてしまった。

戻る道すがら、富士屋旅館へとかかる赤い橋が見えた。千と千尋の神隠しを彷彿とさせるらしく、ときどき撮影スポットにもなるらしい。

さて、いい具合に疲れてきたので、万惣公園にある茶室でひとやすみすることに。この階段を登って右手に向かい、さらに2階側に向かって階段を登った先にあるのが、万葉亭と呼ばれる茶室だ。

橋を渡ると、野趣あふれる建物が見えてきた。この万葉亭は、数寄屋建築の名手として名高い堀口捨巳が手掛けた、現存する数少ない茶室なのだ。

ぐるりと回り込んで外観を眺める。なんというか、今まで数寄屋というものは嫌味なくらい洗練されていて、神経質なくらい研ぎ澄まされた空間というイメージがあったのだけれど、堀口の数寄屋はかなりのどかで、やたら土着的な印象を受けた。好きかと言われたら苦手な部類だけれど、数寄屋建築を理解する上ではかなり面白い建築だなと思う。

中に入ると、囲炉裏が足元にあって驚いた。いや、石がでかいな。ここまでくると、数寄屋建築というよりは、かなり縄文建築っぽくないか?そう思って天井を眺めると…

天井はまさに縄文住居とおなじ小屋組みで構成されていた。ああ、これ狙ってやっているのね、ということに気づく。なんとなく堀口が数寄屋という形式を使ってやりたいことがわかってきた。

室内は一見ふつうの茶室に見えるけれど、よく見ればにじり口もなく、かなり開放感がある。床も入り口付近にあり、頭の中にある茶室のイメージと目の前の空間がうまく一致しない。あえて様式やマナーが適用しにくくされている空間だと感じた。

天井部分にもその挑戦は見て取れる。自分の研究をもとに、日本建築の成り立ちをよりプリミティブな立ち位置から解釈することに挑戦しようとしたのだろう。

茶室では500円で抹茶とお菓子をいただけるとのことなので、せっかくだからとお願いした。お菓子はさきほどきび餅を買った小梅堂のもので、この茶室のためだけに作られたものらしい。建物の雰囲気のせいか、いつも緊張感がある茶会が、この日はのどかなものに感じられた。

Information

名称:万葉亭
住所:神奈川県足柄下郡湯河原町宮上567-8
定休日:月・水
URL:https://www.yugawara.or.jp/sightseeing/2100/

さて、そろそろ予約の時間が近づいてきたので、伊藤屋の前まで戻って権現橋をわたり、待ち合わせの光風荘へ。

光風荘へ向かう途中の道には、源泉が湧き出しているところがあった。見た目には熱そうにみえないので、触ってもいいのかと看板の説明書きをみると、「高温なので手をいれないでください」という注意書きが。危なかった…まさかの湯河原トラップに笑ってしまった。

光風荘の前に着くと、すでに今日案内してくださるガイドさんが到着されていた。

現在、光風荘は感染症対策のため、見学は予約制をとっている。当日はボランティアガイドが1名ついて、中を案内してくれる仕組みだ。

今回担当してくださる方が羽織っていたベストの胸元がかわいらしかったので、許可をとって撮影させてもらった。湯河原のゆるキャラでゆたぽんというらしい。足をチョイとあげていてキュート。

ここからの撮影は禁止なので写真はないのだけれど…おおよそ2時間近くのガイドはとても濃密で面白かった。この光風荘には2.26事件を実行した首謀者とその被害者、そして関係者の資料が展示されており、その事件の生々しさが伝わってきた。

2月26日の朝、牧野伯爵の警護についていた皆川巡査は、勝手口から「電報、電報」という声を聞く。不審に思い自ら応じて扉を開けると、河野大尉から銃を突きつけられ「牧野伯爵の部屋を案内せい」と告げられた。部屋へと向かう途中、皆川巡査は案内するふりをして河野大尉に振り向きざま発砲し、重傷を追わせることに成功する。しかし自らも同時に銃弾に倒れた。

銃声に驚いた看護師の森鈴江と牧野伯爵、そして娘の吉田和子が飛び起きたとき、河野大尉の指示で光風荘に火がつけられた。看護師はまだ息のある皆川巡査を助けようとするが、「自分はいい」と言われて牧野伯爵と和子と共に脱出する。

光風荘から上がった火の手に気づいた、当時の消防団員だった岩本亀蔵が何事かとかけつけ、急いで街の半鐘を鳴らそうとすると、見張りをしていた水上源一に銃をつきつけられ、引き返すように告げられた。しかしこれでは街に被害が出ると思った亀蔵は、いそいで光風荘へと駆けつける。すると光風荘の近くで、女ものの羽織を羽織った牧野伯爵と目があった。和子の機転で牧野伯爵は女ものの着物を羽織り、女性に粉していたのだ。伯爵が拝むようなしぐさをしたことで亀蔵は事態を察し、彼らを安全な場所へと避難させた。

「よければ、そのときの脱出ルートを一緒に歩いてみますか」とガイドさんに提案されたので「ぜひ!」とふたつ返事でお願いする。当時はまだ冬。娘の和子はのちに当時をふりかえり「恐ろしいということより、寒かったことを思い出す」と言っていたそうだ。

光風荘のわきにある階段を登り、牧野伯爵らが震えていたという崖をのぞく。今は草木が生い茂っていて、雑木林のようになっていた。

階段を降り、さらに万惣テラスへと向かってゆるやかな坂を登る。

さらに石段を登ると、熊野神社へむかう参道が見えてきた。

この先にある民家で牧野伯爵らは匿われ、警察などの手によって無事に湯河原を脱出することに成功したそうだ。この2.26事件では、皆川巡査が殉職された。私が知るところの2.26事件はここまでなのだが、光風荘にはその続きの資料も掲載されていた。

まず河野大尉。彼はその後、熱海の陸軍病院で治療を受けていた。その後大尉は、家族から差し入れされた果物ナイフを使用して自決を試みる。しかし果物ナイフでは致命傷を負うことができず、病院の裏手でのたうち回っているところを医師らが発見した。医師らは救命措置を行おうとするが、本人の希望でそのままとされ、結局失血死で河野大尉は死亡した。彼の家族である弟からの手紙には「わたくしは兄様のことが大好きです」という言葉と共に、家族が自決を望んでいることが綴られていた。

次に民間人であり弁理士であった水川源一。彼は事件前に恋愛結婚をし、妻と幼い娘がいた。しかし本事件に参加後、死刑となる。死刑判決後、妻のはつねは2.26事件に関与した人間の家族として、厳しい視線を浴びせられることも多かった。都内でタイプを学んだあとは、満洲へと飛んで仕事を獲得。その後娘を呼び寄せて生活した後、終戦前に日本へ帰国した。一度は再婚したものの、その後離婚。最後は水川家の墓に入り、激動の人生を終えた。光風荘には水川の骨壺をかかえるはつねと、何も知らずにほほえむ幼い娘の写真があり、事件の物悲しさを語っていた。

それ以外では、協力者の渋川善助が死刑判決を受け、残りの6名は禁固刑となった。

2.26事件はこれで幕を閉じるが、これをきっかけに内政では軍部の発言力が増大し、日本は太平洋戦争へと突入していくことになる。

もともと2.26事件に関与した青年将校たちは、貧しい暮らしの中で、家族を食べさせるために軍へ入った者が多かったという。そんな者たちが中枢の人間に利用されたことを哀しく思う。決して暴力によるクーデターは許されることではない。けれど、こうしたときに矢面に立つ人間の影に隠れて、ああ、あいつらは実に都合のいい駒だったと笑っている者たちは、なにひとつ変わらない生活を続けていったことを思うとくらくらする。そして犠牲になった人々と、その後の家族の激しい人生を思えば、なんと虚しいことだろうと感じずにはいられなかった。

ところで、この地に麻生太郎氏が訪れたことは無いそうなのだが、縁があるとして自筆の石碑を寄贈したらしい。それがこの写真。その後、麻生氏の叔母が当地を訪れてこの石碑をみた際に「麻生太郎は字が下手だねぇ」と言った話もおまけで教えてもらった。

湯河原の歴史に触れ、とても濃密な時間を過ごすことができた日。ボランティアガイドの方にお礼を告げて、その場をあとにする。坂を下ると、今日まで宿泊していた伊藤屋が目の前に見えた。

Information

名称:光風荘
住所:神奈川県足柄下郡湯河原町宮上562-3
備考:2022年7月現在、Google Mapでは臨時休業中となっているが、予約をすればガイド付きで見学が可能。予約は1週間前までに湯河原町役場にて。(電話予約可)

帰りは湯河原惣湯 Book and Retreatでコーヒーをテイクアウト。ひさしぶりに訪れたけれど、広場にハンモックやベンチが出ていて、いろいろな人が様々な形でゆったりとくつろいでいる姿が印象的だった。

家の塩を切らしていたので、ついでにマルドンのシーソルトも購入して帰る。わずか1泊2日の滞在だったけれど、とってもリラックスしてユニークな旅を過ごすことができた。夫への誕生日プレゼントだったのに、すっかり私がはしゃいでしまう始末。

湯河原は箱根ほど観光客でごった返しておらず、静かにショートトリップをたのしみたい人にはとってもいい街だなと改めて。わたしも夫もすっかり気に入ってしまった。またこうした風景を楽しめるよう、日々の生活に仕事に邁進していこう。

Information

名称:湯河原惣湯 Book and Retreat
住所:神奈川県足柄下郡湯河原町宮上566
備考:最新情報はInstagramを参照
URL:https://yugawarasoyu.jp(公式HP)
   https://www.instagram.com/yugawarasoyu/(IG)

 

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